さてこうした荒砥町の軽便鉄道にかけた情熱は、どこから生まれたのでしょうか。その一端が知れるものとして、大正12年4月22日に掲載された荒砥町長の談話を紹介したい。
荒砥は最上川舟運の時代は交通の要衝であり、置賜村山の物資の集積地であった。それが奥羽線の開通後は赤湯が拠点となり、長井線の開通により長井町が地方の中心地であるようになった。このままでは荒砥は廃れるばかりである。荒砥までの延長によって、奥羽線と連絡できた事は喜ばしいが、今後は左沢と結び仙山鉄道と坂町線によって仙台、越後と直接交流することが必要だ、というのである。当時の荒砥町の危機感と夢の大きさを感じるものである。
荒砥駅の開業は15年以上の闘いの歴史であった。「天地人」ではないが、天の時にも恵まれず地の利もなく、人の和のみで挑んだ戦いであったのだろうか。新聞記事で「近い将来、村山左沢と接続することは既定の事実である」と評された左荒線も、何度も紆余曲折を繰り返しながら、結局は実現されることはなかったのでした。
【新聞記事提供:米澤新聞 大正12年4月22日(二)】
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