軽便鉄道建設に貢献した人物を調べて来ましたが、地元の住民等の動きが最も見えるのは荒砥町であるように思えます。この機会に荒砥町における建設運動の経過をまとめ、荒砥駅開通式に期成同盟会長であった大貫忠右エ門氏を含めて荒砥町5人衆として、その情熱の源泉を探ってみたい。
明治43年4月に軽便鉄道法が公布されたのですが、その年の秋には長岡不二雄、高山悌次郎、栗和田與吉などが荒砥軽鉄期成同盟会を設立しています。山形県議会から軽便平野鉄道の建設要望が出されたのは明治44年12月であり、まさに鉄道会議で赤湯~長井間の鉄道計画が承認された時です。これに対応して、翌年2月には西置賜郡会で「置賜平野鉄道速成に関する意見書提出案」が出され、さらに荒砥町長長岡不二雄、東置賜郡伊佐沢村鈴木琢磨ほかが、最上川右岸を経由して荒砥まで延長することを請願したのは明治45年3月15日のことです。
このように、軽便鉄道長井線に対する反応は極めて素早いものがありますが、その運動の震源地は荒砥町にあったのではないかと思います。荒砥町史(P278)には、荒砥出身の南波平次や長岡不二雄が相次いで郡会議長の職にあったことに力を得て、長井からの延長敷設の運動に入った、と記されています。南波平次、長岡不二雄らは県会議員にもなっています。歴代の町長、郡会議員、さらには県会議員が連携して、一貫して建設運動にまい進した姿が伺えるのです。
【写真提供:白鷹想い出写真館 参考資料:荒砥町史など】
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