卯の花姫物語 5-⑤ 三淵明神建立の由緒

 三淵明神建立の由緒と伝説
 其の様に姫が御霊を崇敬して暮らしていた。桂丸は何の虫気もなくすくすくと育っていった。七ツ八ツの頃から、母が学問手習いの教育を授けた上に、武芸にも心して仕込んだと云う女丈夫の母であった。十五才の春を迎えた時、母は自ら元服を加わいてくれた。父が姓其のまま名乗らせるのを世間にはばかった。其のころは未だ清原氏が官領の時代であったので、母方の姓を取り入れて高木氏を青木氏と改めて、母が姓・藤原姓を取って青木半三郎藤原経春と名乗らせたのである。父家経が下の字を頭につけてくれたのである。
 即ち現在、平山で彼の辺野川南岸は寺泉村の領域で明治初期までつづいていた。青木半三郎を家名として累代相伝の同家初代の人となったのである。其人又父母に似て稀代の賢者であった。母に孝を尽くし世の声望最も高く一世にして身代地方豪族を創立した。後住居を(当時の寺泉村)平山野川口に移して拠を構い子孫繁栄家運隆盛連綿として今世に栄えておる。青木氏子孫分布の経路は、平野、西根を中心に其の地一帯に分布広がって現在に至っておるものである。
 今の桂谷地区の住民の人達も、忠臣定七の様な善良の人物が末裔と思うが、その証拠がないのは甚だ遺憾の至りと思うのである。姫が神霊が、総宮大明神も合祀されておるに就いて、古来から面白い伝説が其地に伝わっておるので慈に揚げて見ると次のようなものである。
 昔宮村鎮守の例祭は陰暦七月十八日の夜祭りで十九日の昼祭りであった。毎年姫の御神霊が三淵から宮の御祭りに御招ばれになって、夜祭の晩方から野川を下って御出ましだと云う事である。神霊は雲竜に御乗りになって、野川づいたに御下りだと云うことである。一旦成田村の南極にある『化粧坂の観音様』境内に御降りになって、卯の花の色美しい衣装に御召し替いをして、御化粧をしなおしてから宮の方に行かれたものであったと云い伝えられておる。
 先年私共が其現地調査に行ってみた。丁度野川の鉄橋を北に渡って一寸と北の処で、長井線の鉄道線路から真っすぐ西の田圃中汽車の中からもよく見える極めて小範の境内である。樹木が少しある中に石造御堂の観音様である。御堂に向かって左側に、姫の御霊が御化粧の際に御腰掛けになって御鏡をつかわれた石であると云う。其石の名称が卯花姫御腰掛けの石と呼ばれておるとのことである。
2013.01.15:orada:[『卯の花姫物語』 第5巻]

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