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卯の花姫物語 2-④ 初戦官軍大敗

河崎の棚の初戦官軍大敗

 敵の兵力が日をおって増強するの報が次々と忍びの者から伝えられてくる。大将頼義憤然として出陣の決意をした。再任の勅許が届かぬとて国府に在任しておる限りは官軍たるは当然である。大敵たりとも恐れず小敵たりとも侮らず兵家の極意とするものである。敵の勢い益々増大するを手を空なしうして看過を免るさぬ事である。味方の軍勢少数なりとも戦いの勝敗は大将の剛臆によって決するものである。一挙にして衣川の本拠を居って賊徒を悉く誅 して終まえ。と云う命令の許に精兵すごって一千八百余騎、敵の本拠衣川に向かってまっしぐらに進軍した。貞任方においては衣川の前衛として阿騎の棚と云う所に主力を終結して今やおそしと待ち構えておった所に打つつかったので真っ向からの正面衛突で非常な厳しい主力戦となって展開されたのである。(注 いつもおことわりの様に戦争のことは卯花姫物語りによくよく直結した部分の戦さで、そのうちでも始まる動機や結果のみとして戦闘中の様相等は省略することをおことわり致します)
 この戦いの結果り概要だけを書いてみればこうである。
 天喜五年十一月二十九日に始まって十二月三日にいたる四日間の激戦で数倍の大敵と猛吹雪の中においての苦戦、味方全滅の大敗、殆ど頼家、義家が主従僅か六騎と成ってようやく敵の重囲を破って逃た得たと云う結果を招いたのであった。
 然し乍らこの戦いで姫が命をかけて恋慕しておった八幡太郎義家は年二十才の初戦であった。この様な惨敗の中においての戦いにも全く武将として天凛の名将であると云うことを敵味方を問わず立証しないではいられない戦さぶりを発揮したと云われたのであったと云う。
 先に戻って戦闘末期の頼義父子が敗戦逃避の様相は惨たる中にも義家が勇戦力闘はまた目覚ましいものであった。全く部隊行動を失って終わった味方は散り散りばらばらになって逃げた。打たるるに者谷を下って走る者、峰を越えて逃げる者、頼義父子も一旦はぐれて見失っておったが、義家父が安否を気遣い探して一緒になって父子二人従者四人の主従六人で逃げた敵の追跡益々急。
 義家六人の矢を く一手に集めて自ら殿りに止って群がり追いくる敵兵を矢つぎ早手の猛射でばたばたと射倒してはまた味方を追うて走り、また止まって殿り乍ら谷を下って走った。
 

卯の花姫物語 2-③ 前九年の大戦乱

奥州前九年の大戦乱の始まり

 義家は今度発生した事件が個人的犯罪で。まあ・・・普通今の警察が論説程度のものだとは元より思ったのでないのは云う迄もないが、どうも対手は奥州一の大豪族後世の雄藩に均しいものと云うのでは、たとえ国司の命令であるとしても余り強硬な申し渡しをすると、どう考えてもこれは戦争と云う迄になるじゃないかと思われて仕様がなかった。戦争さえ避けられるならば国府でも十分の満足でないとしてもある程度忍んでもまあ・・仕方ないだろうと考えたのであった、
 そうして治めるには一層安倍家の一門に任せて彼らが手で責任ある処にしろと云う申し渡しに命じた方が一番よろしい方法と考えたのであった。そうしたらまさか安倍家でも吾が息子を死刑にもしないだろうし、責任上無罪にもされまいし、父頼時が命令を以て貞任は  謹慎。家督は次男宗任に相続位の程度の処で事件、落着きになるだろうと思って父を めたのであったがいられなかったので遂々ああした大戦乱に迄なったとはどうしても起らで叶わぬ戦いであったと云うより外ない次第である。安倍家では貞任引き渡しを拒絶して一門をあげて焦土決戦迄での抵抗すると云う事が直ちに国府に処の者の報によって判かったので、どうしても官軍を以て追討するよりないと云う事になった。そこでいざ戦争と云う事になると頼義父子が如何に智謀に富んだ大将とも泰平時の国司の兵力は極めて僅少のものであった。将軍直属の手兵のみと云う手薄のものであった。
 それに反して安倍家の方の軍勢終結は自分が国内から集めるのであるから容易なものである。
 以前奥州征伐として大軍を率いて堂々と始から向かってきた時の情勢とはまるっきり反対である。頼義は早速京都へ急便を飛ばして、安倍の頼時父子の者 す、追討大将軍と陸奥守国司の再任とを朝廷に奏請してやった。一方、関東に於ける源氏の家臣へ軍勢の催促をしてやると共に北陸、東海、東山の方面へ激を飛ばしてやる戦いの準備おさおさ怠りなかったのである。

卯の花姫物語 2-② 導火線発火 

奥州前九年の役の導火線発火

 大将・源頼義大いに怒って、光貞に弓を引いた以上は吾れに刃向うたも同様である。己れが不義の恨みに因って国法を犯し闘争を起こして、平和を錯乱した貞任が大罪はそのままには免されない。速やかに召し捕って釈明申し付けよと云う憤慨甚だしい見幕であった。義家も父頼義が激怒甚だしい様子を知って、其驚きと共に落胆も又大なるものであった。自分と卯の花姫との関係の故もさる事乍ら、引いては国家の一大事であったからである。
 こうした事件は、一旦其の処理を誤らんか、干才を以って争う事に悪化しないをも保し難い事と考えたからであったのだ。これは此事件を初めから闘争事件としては取り扱わない。飽く迄で貞任が一人の個人的犯罪人とした範囲に限定する。父頼時外安倍家一門に責任負わせた処断に任せて治むるにしくはないと考えたので早速父頼義が前に出でて己の所信を述べて父を めたが頼義は汝が進言も一応最もであるが安倍家一門に累を及ばさぬ様に寛典に処するは宜しいとしても国法を犯して騒乱を起こした大罪人を一個の犯罪人として罪人の家門の者共に任せ放しにしては全然一国の国司の威令が行なわれざると同様である一門の者共に各は申付ぬとしても犯人一人だけは国府え引き渡す様申し付けよと云うて承知しなかったのである。
 富強を以て奥州一を誇った豪族の安倍の一門が貞任引き渡しに応じればそれ迄でだが命を奉じないとしたならば勢い兵力によって処さねばならない事となる。之迄で折角泰平に治まった奥州の天地が再び修羅の たとなって萬民塗炭の苦しみに陥る国家の大事となるを恐れての進言も空しくやがて奥州の大乱となって姫が望みも一朝にして水泡に帰して終う運命となったとは是非もないことであったのだ。
 貞任引き渡しの命令を受けた安倍家では直ちに緊急一門会議が開催された。老将頼時が平和説であったが次男宗任は始から主戦論を猛烈に主張した。兄上を国府に引き渡して終う上は死罪仰せ付けられても早救い出だす可き道が無くなると云うものである。兄上一人 せられて吾々おめおめ生きておられ様か座して死なんより一層戦って決戦の覚悟と云う義家が先見寸分も違わぬ結果となったのである。

卯の花姫物語 2-① 前号までのあらまし

 長井の村々に、今も伝わる黒獅子祭り。それには、歴史のはざまに揺れた悲しいい物語が秘められている。それは平安時代の末期、今から約950年も前の出羽・奥州の政治のうねりに翻弄された、卯の花姫の悲恋の物語でもある。
 当時の出羽・奥州の二か国は、馬と砂金の産出によって、きわめて裕福で強力な権勢を誇った地域であった。棟梁は安倍頼時、その息子が貞任である。卯の花姫は、安倍貞任の娘である。
 安倍氏の権勢は、当時の国司を凌ぐものであり、国司軍に対して、鬼切部(現在の宮城県鳴子町鬼首)の戦いに完勝した。しかしこの戦いによって、安倍氏は朝敵となってしまう。朝廷は、源頼義・義家を奥州征伐の大将軍に任命。義家は、八幡太郎義家であり、今も各地に残る八幡神社に祭られている武将でもある。源氏の大将父子が討伐に来ると知り、安倍氏は降伏。
 頼義の計らいで無罪の恩赦を受けた安倍氏は、天喜2年の春に、報恩の饗宴を国府・多賀城で開くこととなる。この時に、卯の花姫と義家が出会うこととなるのである。また、卯の花姫の侍女・桂江も義家の家臣・高木新三郎家経と一目ぼれの仲となる。さらにこの饗宴に同席していた斑目四郎武忠(後の清原武衡)も、卯の花姫を恋慕することとなる。ここに至って、歴史的物語の主要な人物が登場することとなる。
 奥州を二分した前九年・後三年の役という政治を縦糸に、安倍家の姫と源義家そして清原武衡の愛憎を横糸に、壮大な歴史物語がいよいよスタートする。第2巻は「前九年の役」から始まる。

卯の花姫物語 ①作者のことば

 さてさて、成田黒獅子祭りの記事をご覧になった方や、長井市の「黒獅子祭り」をご存知の方は、「もっと黒獅子祭りのことを知りたい。」と思われた方も少なくないことでしょう。そんな皆さんのために、新しいシリーズがスタートしました。
 このシリーズは、かつて昭和30年代に地元長井新聞に連続掲載されていたものを復刻したものです。作者は、五十川地区に住んでいた菊地清蔵さん。そうです、「おせきの物語」の原作者でもあります。
 文語体であり大長編でもあり、読みづらい部分もありますが、頑張って読破してみてください。そして可能であれば、現代語訳にしていただければ幸いです。それでは、始めましょう。

(序) 作者のことば
吾等の郷土長井の里に総宮神社と云う大社があって、昔総宮大明神と称しておった頃には、下長井四十余郷の総鎮守として崇敬されておったのである。そうして此の神社は社号が総宮大明神と云う名称そのままで、たくさんの御祭神社が合祀された神社であるのは云うまでもない事であった。そうした数有る御祭神の一体に卯の花姫の御霊が合祀されてあると云い伝えられておったものである。むしろ一般の民衆などは宮の明神様は卯の花姫を祭祀した神様だと心得ていたのが大たいと云う程度であった。
 処で其一面においてはそれ程尊い郷土守護の神様に事もあろうに、朝敵の大将安倍貞任が娘などを祭祀するとは何事であると疑念をいだくに疑問を抱く人もおる様でもあるが、其次第はこれから項を遂うて述べるので自然判つてくるが、それにしても概要だけを知っておかないと後を読むのに都合が悪いと思う。
 姫は安倍貞任が長女に生まれ源氏の大将鎮守府将軍伊守源頼義が嫡男八幡太郎義家と相愛恋慕の仲となった。二人の間に固い婚約が結ばれておったが、怱ちにして一旦成立した平和が破れて敵味方の身の上となって終わった。奥州前九年の大戦乱とは此の戦争のことである。戦いが終わった後に兼ねて姫が艶色に強烈なる恋愛に陥って来たる機会を狙っていた恋のかたき、出羽ノ国の豪族清原武則が最愛の四男斑目(マダラメ)四郎武忠が戦勝の余威を振って安倍貞任が残党討伐の軍勢として向かう大軍に遂い込められた。降参して我が意に従えば命を助けた上に手活けの花として寵愛を捧げんと云う矢文を幾度も受けたが姫は断固として退けた。義家との恋慕を捨てず吾が身は一旦八幡殿の御寵愛を豪った女である。「死すとも其面目を全うし長く此土地守護の神と化せん」と、遥かに京の空を眺めつつ義家を慕う悲恋の数々を絶叫して千尋の峡谷三淵の深淵にと身を投じて死んで終わった。即ち三淵明神や総宮大明神の祭神たるの由緒はこうした意味に拠るものである。
 之は伝説であるから歴史的真実性には疑わしいのは勿論であるが、古来から吾等が愛する郷土にこうした芳しい逸話の伝説があったと云う事をもって一つの誇りとしてよいと思う。仙境三淵の絶景の地に、姫の追い込められ最後の牙城として建て寵った。一旦寄手の大軍に味方少数の残兵を指揮し智謀略を以て殲滅に打破ったと云う。雲に聳ゆる彼の高嶺(標高10.546)の安倍が館山との二場所は昔を偲ぶに足るものである。
 時正に世の変転に恵まれつつ、やがて完成を相待つ木地山ダムと併せて市内観光地に数えられ、これから観光客や山岳隊の登山客等々を大いに迎えんとしてひたすら待ちわびおるのである。茲に筆者が該小説を試みんと企てた所以も即ちそうした意味に基因したのである。 著者 識