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卯の花姫物語 4-④ 姫が宮村に城を造る

宮村に脱出して駐屯した
武忠が推量の通り康平六年も六月の初旬頃には、姫が同勢の食糧も全く尽き果てて如何んともしようがなくなった。こうなっては運を天に任せて村里に進出して,兵粮を結集してよくよくの場合には,再び牙城に退去するのみと覚悟をした。そして同勢を従いて,宮村辺り(今の小桜城跡)の処を以て陣営として駐屯した。食糧が尽きたが,衣川を出る時用意してきた黄金は沢山に持っていた。何をするにも砂金に物を云わせてやったので,凡てが迅速に行われたのである。そこで館にも堀をめぐらし,柵を構えて仮り城とした。兵の意気大いに揚がったと云う。
 里人は,そこを卯花城と呼んだと云う事である。即ち後世の小桜城の前身の箇所である。(昭和初期の頃高野町東側地方事務所裏に、御料理「卯の花」と染抜きの紺の暖簾を下げた料亭などが開店された事があったのは、即ち卯の花城の土地に因んだやり方で,全く昔を偲ぶ奥ゆかしい事と思っておる内に,僅かの間で閉店して何処くにか移住して,今は長井の里におらないと云う事であるとは誠に惜しい事と思うのである。)
 姫が宮村に駐屯して兵勢大いに振うの報が,武忠が処に達しないでいろう筈がないのは云うまでもないことであった。この報を受けた武忠が喜びは,又一段のものであった。今度こそは村里に出て来たとはしめたものだ,と思ったからであった。早速新規召抱えの家来大忍坊覚念に二百余人の軍勢に大将として差し向けた。
 出発に際して武忠は,覚念を膝元に呼んで,此度,姫を生け捕りにして来れば,兼ての約束通り,生け捕った桂江を汝が妻に与えるので心して使命を果たしてこい、必ず油断して彼女等を殺してはならぬぞと云うて命じたのである。
 大忍坊も其の度こそは村里に出て来た上は,萬に一つも逃がして措かぬ。まんまと手捕りにして,桂江を我が妻として日頃の望みを達す時節到来しと,勇み進んで出陣した。

卯の花姫物語 4-③ 朝日別当坊の焼き打ち

朝日別当坊の焼き打ち
 愈々姫が同勢の赴り付いと云う山は天然の悪害をなしておる山であるのに,姫が彗眼は見逃してはおかなかった。西は野川の本流が山下を洗って浪々と流れておる野川に向かって右には大桶沢、左に布谷沢の二沢が流れ落ちて,野川に合流すると云う場所(三淵渓谷)で自然な天険の処である。万一食糧になど困った場合には,宮村方面(長井市宮地区)に出て,兵糧集めになども都合がよい処であったので,姫は慈を牙城として選んだのである。自ら指揮して陣営を工築した。そうしてひとまず慈に拠ってたむろして一同を休めたのである。
 一方鎮守府に於ける武忠が方では,今や遅しと古寺の返答ばかり待ち詫びておっ多。しかし,日限が過ぎても何の音沙汰がない。心焦った武忠は,又も使者を遣わして詰問した。人の答えは先達て御上使参向う当日御上使が寺からお帰りにならない内に,裏口から逃げ出したと見えて一山総出動で毎日山探しをしておったが,今以て捕らえる事が出来なくて申し訳が御座いませんと云う返答であったから使いの者もどうしようもないことである。どうも上使とこちらがしゃべっていたのを感ずいて上使がいた内に裏口から逃げたのでは全く古寺がわばかりに責任を負わせる可き筋合いのものでも無いので使いの者もどうしようもないので,一応帰って其のままの事を主人に報告するよりないのであったのだ。これを聞いた武忠は烈火の如くに怒った。先ず第一に,姫が逃げて行っていなくなったと云う一事で大怒りであった。いなくなった理由や如何んなどはどうだろうが考えている余裕などはちっとも無い怒り方であったからたまらない。八つ当たりが半分も手伝って一山 く焼き払って皆殺しにしてしまえと云う厳命を下した。
 二百余騎の大軍を催して自ら率い古寺を差してまっしぐらに進軍して来た。
 坊舎の少し手前に魚鱗の構え(魚りんのかまえとは今の横隊のこと)に整列して闘の声をどっと揚げたから寺では突然の武者押しに仰天してきいて見ると姫を故意に逃がしたからそれを以つて安倍貞任に味方して官軍に不利な事をしたから逆賊と見なして討伐すると云う罪名であった事だけが判ったと云う。
 こうなつては問答しておるいとまもない。敵の矢は一斉に雨あられの様にばらばらと射ち込んでくる。一山の僧兵五十に足らぬ小勢乍らも,弓矢を取ってばらばらと防ぎ,矢射返して防戦したが元より鳥合の僧兵武忠が率いる大軍の精兵に叶う可き道理がない。怱ち打ち破られて寺内に逃げ込んで終わったのである。

卯の花姫物語 4-② 愈々窮地に陥る姫

姫が立場愈々窮地に陥る
 上使の到来と併せて武忠が恋々たるの艶書を受け取った姫が,驚きと憂鬱は並大抵ではなかった。と云うのはこれ迄で、大恩受けた正徳上人を始め一山の興亡と我身が生命の死活の如何んは,ひとえに義家との恋愛と約束とを破棄して、四郎武忠が妻となる事が出来ると出来ぬの如何んにかかって来たからであった。
 始めから上人は姫が心を翻す能わぬことを見通しておったので、一時も早く其処を脱出する事を進めて止まなかった。姫は恩人に迷惑をかける事が気が咎めてしょうがなかった。上人はその時はその時で俺が方法を考えておったから、御身が脱出の時期を逸してばかりはどうにもならないから寸時の猶予も免るさぬ場合である。只今直ぐに用意を急げと云うて急ぎ立てた。其寺の下部で定七と云う五十余りの男は小国の生まれで元漁師であったが、余り多くの殺生をしたのに無常の発心して其寺に徒弟として仏道に帰依した正直無こう者で、この朝日山系の山は知らぬ処がないと云う無双の山人であるのを家来として付けてやるから早く其山を脱出しろと云うて止まぬのである。上人重ねて村里は己に武忠が軍兵要所要所に充満して蟻の這いずる隙もないのは必常であるから峯渡りの山越しに脱出して置賜に出て小国の山を越えて他領越後を登って京に行く様にと教えてやつた。(上人が考えて教えた方法も義家が書面で指示したのと同じであった。)姫は恩人に迷惑がかかる可くに気掛かりでしようがなかったが、時機を逸してばかりはどうこうもならぬと余り急ぎ立てられて後の髪を引かるる思いのままで涙を以て暇乞いの許に同勢十余人に定七を案内の家来として山奥深くに脱出したのであった。
 案内の家来定七が先頭となって先ず今の島原山の絶頂によじ登った。いったん(現在の朝日鉱泉)の深谷へ下ちて来た。更に里前が見下ろされて見当を付けられる峯を差してよじ登って峯渡りに南へ南へと登って阿陀が獄の頂上に登った。(今の葉山)更に南進をつづけて遂々現在の安倍が館山と名称を付けられておる山に来たのである。
 其間女軍の山獄行進であったので何日もかかって野営を張って泊まり乍ら、ようやくここ迄で赴りついたのであった。
 かようにして天の御支配は,愈々姫を長井の地迄で連れて来られたと云う事になったのである。

卯の花姫物語 4-① 姫が身辺愈々危うし

姫が身辺愈々危うし
 斑目四郎は,時を移さず古寺の坊舎に、正式に鎮守府将軍の上使として使者が乗り込んで行った。鎮守府将軍の上使の乗り込みとあっては、当時としては事の如何んを免るさぬ絶対の無上命令であった。卒然の上使到来を迎えた別当坊では狼の極みに達した状態であったが、早速く一山を挙げて恭々しくお迎えして奥の上段に招じ案内して,別当上人以下の役僧の重なる者一同低頭して、上意の趣き委細承はらんと云うて平伏した。
 上使はいと横柄に申し渡す様上意と一声呼はつて,当寺に於いて逆賊安倍貞任が娘卯花と申する者を長年に亙って囲い置いたる段、許し難し。この度新規に招抱えた家来大忍坊覚念と云う者、元当山の役僧であったと云う者の訴人によって明白に判明した。速やかに召し捕って係の大将斑目四郎武忠殿が御手許に引き渡す様申付くる者也、期日は三日の間に実行致せば,格別の御慈悲を以て姫が死罪を免るし、武忠殿に終身御預けに御下たし仰せ付る者也加えて当山の逆財の娘隠匿の罪一切を放免してつかわす者也、右条々違背致さば速やかに大軍を差し向け、当山を一時に踏み潰して終うと云う申し渡しであった。
 表面の形式として一同謹んで受け奉る旨を申し上げ多。それから上使いを餐応の間に招じて厚く待遇した。其席上で上使の人が上人に密かに云うには,兼ねて御察しとも存じますが、主人武忠は非常な姫にご熱心で御座いますから、姫が心一つでどの様にもなるので御座います。禍がかえって幸福にもなると云うもので御座いますから、まあ・・そこの処を善処してくださる様に。まあ・・何でも具合のよい様に立ちまわるのが賢い方法でござる。そうしてこれなる書面は主人武忠から姫に宛てた恋文で御座います。之を御渡しと共に御上人様からも宜しく御頼みで御座いますと云うて、使者の同勢は引き上げて行ったのである。全く世上表裏の場面と云うものは凡てこんな面白いものである。表向きにはあの様な権柄づくに堂々とやってきた者が,裏にまわってはまるで哀願のあぺこぺこで,尾をふって食を求める犬みたいな者である。そうして人間が色情で表面にあらわれる様子と云うものも,又大したものであると云う事になるのである。
 しかしながら其哀願を姫が叶わせなかったばっかりに,古寺の焼打ちとなって表れたのである。

卯の花姫物語 3-⑩ 家経との別れ 

桂江が遭難を免れて古寺に帰ってきた
 桂江は危うい処であったが、助けてくれた武士は図らずも恋に焦がれて忘るる暇もない家経であったとは、先の恐ろしい思いをしたのと反対に如何に嬉しい思いであったのか、其晩は山辺泊まりの心算りで行った道中も、家経に遭ったばかりで反対に戻って来て宮宿に泊まったのである。久し振りに遭遇して同宿に泊まった彼ら二人が嬉しい思いは尽きせぬ話に一夜千秋で夜が明けたのは、想像にも尚余りあるものであったのだ。
 宮宿を翌朝出立した二人は、其日の内に古寺について主人義家が、国府引き上げに際して最後の文使いの命を受けて参上した事から、併せて途中で桂江が遭難を助けて同道で連れ戻って来た事迄を委細報告したのである。
 姫は家経から委細を聞いたと共に家経が書面を読んで、いつも変わらぬ義家が温情の溢れる心情のこもった手紙を胸に押し当て抱き締めて、嬉しさ恋しさが胸に迫って涙がわき出て、御文みを抱き締めてそのままに、よよとばかりに泣き伏して、しばし頭も上げ得ぬ様であったのだ。
 思いは家来の桂江も同じであった。主人の使命を奉じて行く途中、必死の危難を助けて貰った其人は、図らずしも日頃想い想いに焦がれ焦がれて恋しておった家経であったとは、如何なる深い前世のえにしであったのか。漸く遭うて嬉しい恋しい此殿と又も別れる身の辛さ、家経は一時も早く姫が御文みを受け取って、主君義家に届ける可く、国府に寄らずに鎌倉の主君のまします彼地を差して登らにやならない其身である。やがて京で遭う瀬を楽しんでここ放せとせき立つ殿御おさえて桂江はせめて今一夜、今一夜とおさえにおさえて放さない。遂々五日泊まって家経は、泣いてすがる桂江を振り切って、古寺を去って相州鎌倉を差して登って行った。この時は泣き泣き別れたにしても、前途に望みをかけて又の逢う瀬を楽しんで別れたが、それが遂う遂う長の別れになってしまうとは、後にぞ思い知らされたのであったのだ。
 清原武則が新しい鎮守府将軍に任ぜられたと云うても、源氏の大将父子が居るうちは其配下であるから、一々其指示を受けてやらなければならないから、完全なる奥州両州の覇者と云う訳にはいかなかったが、源氏が引き上げて行った後は当然絶対の権利者となったのである。