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卯の花姫物語 5-⑨ 清原一門、内訌の弐

清原一門内訌の説明ノ二
 清原氏一門も三代実衞が代となった頃には、同家が奥羽の天地で覇者となった基いを開いた。武則が子で健在の人は相次いで物故して、武忠只一人となって残っていたのである。
 一門最古老の元勲として、一門に重きをなしてはおるとしても主君ではない。甥実衞が、家来には間違いのない臣礼をとって仕えねばならない。彼はそれが不満でたまらなかった。彼が考えた事には、吾れは一門中第一の重臣元老として威張っておるのに元の斑目四郎では貫禄がないような気がしてならなかったので、元の清原姓に復して清原武忠を清原武衞と名前も替えていた。苗字を清原に改めたとて武忠を武衞に直したとて人間と根性に変わりがなかったのだ。彼が倣慢不遜の振る舞いは以前に勝るともちっとも劣ってはいなかった。彼が行いは飽迄で元の武忠で何か乗ずるに都合がよい事あれかしの機会ばかりを狙っておる始末である。
 こうして武衞が欲望を逞うする隙を狙って暮らしておる内に思いも掛けぬ端なくも奥羽二州の天地が驚天動地の大戦乱になる導火線に火がついたので兼々清原一門の不平内訌が轟然として大爆発をしたのである。奥羽後三年の役と称した大戦乱とは即ちそれである。
 戦争の全体を説明するのを省略して、どうして起こったのであったかと、どう云う事に終わったかの概要だけを書いて見れば次の様なものであった。其戦の起こった導火線をなしたことと云ったら本当につまらない小さいことから始まった事件であったのだ。
 三代の当主実衞に子供がなかったので養子の相続人であったので、それに御嫁をとるときの婚礼式の日であった。その日の御嫁さんと云うのは前九年役の際に大将軍源頼義がある女性に を落として行ったのが、生まれたのが成人した人であったとのこと、落と の娘でも源氏の大将の娘と云う立派なものであるから、清原氏正統の相続人との縁組で、それは相当であるからそれでよかったが、それとは別な事である。其当日のこと清原一門の古老に吉彦秀武と云う老人がいたのが、たとえ一門の古老でも臣は臣であるから自ら御祝いを持ってわざわざ出向いて来た朱塗りの広蓋に黄金をうづ高く積んだのを秀武老人が自ら頭上に捧げて恭々しく祝意を述べたが、丁度其時実衞がある奈良法師と碁を囲んで夢中になって振り向いても見なかったと云うことであった。

卯の花姫物語 5-⑧ 清原一門 内訌の壱

清原一門内訌の説明ノ一
 清原家に内訌などがなぜ起こったかの原因から書いてみるとこうである。原因は数々あるが、主なるものだけを挙げて見ると、一門の中に不平分子がいた事。第一に斑目四郎武忠が、卯花姫に対して醜名を馳せた事に就いては彼の通りであったから省略する。が彼は元来の吾が儘者で、其身に勝った欲を望んで成就しないのが当たり前な事が成らないのを恨んで他を憎む気性であるからろくなことが起きないのである。卯花姫に関した事ばかりではない。父が貰った千人一人の美人を、兄武貞が処にやられたのにも怒らんだが、まさか口に出して争う事が出来ないので心中只だ焦ら焦らであった。
 父が死んだり二代目の兄が死んだりの三代相続の度毎に自分が家を起こした武則と云う初代の愛子であると云うので相続の野心満々であったが、如何に野心があっても末子か愛子であったと云うだけでは相続を表て立って争うと云う理由はなさないので其都度兄や甥を らんで心中 々の焦り方をすると云う。成らないのがあたり前なのか思う通りにいかないのを怨んで 々とやせる身の程知らないうつけ者であったから始末におえない者であったのだ。
 それから清原家にもう一人、丁度、武忠を縮図にしたような者がいたのに家衞と云う者であった。これは武忠が長兄武貞が千人に一人の美人であると云う女性を戦功で賜ったと云う。其の女の腹から翌年生まれた武忠が甥で、三代実衞が異母弟と共に又其女性が連れ子である藤原清衞には異父弟であった。此家衞も二代武貞が若い美人の女房が生んだ末子と云うので父が寵愛無二であったので、叔父武忠と非常な意気統合の間柄せとなって三代の異父実衞に反目の中となっておると云う。其の様に当時の戦争に敗戦がわの女性を戦利品として有功の将士え分かち与うる習慣は、今世の人には考えられない非人道のことであるが、当時としてはそれを以って普通の事として怪しまぬ事は事実であったから驚くの外ないのである。
 又藤原清衞も母の連れ子で、成人したので兎角く折り合いが主将の実衞には反目の中であったのである。そうした中にも三代実衞は一門の主権者の君主である以上は君は君、たとえ一門中の年長古老といえども臣は臣として臣礼を尽くして仕るのが普通とした当時であるから武忠実衞等のような存在は平和を以って通す難きとするものであったと云うもの 清原家に内訌などがなぜ起こったかの原因から書いてみるとこうである。原因は数々あるが種なるものだけを挙げて見ると一門の中に不平分子がいた事第一に斑目四郎武忠卯花姫に対して醜名を馳せた事に就いては彼の通りであったから省略するが彼は元来の吾が 者で其身に勝った欲を望んで成就しないのが当たり前な事が成らないのを恨んで他を憎む気性であるからろくなことが起きないのである。卯花姫に関した事ばかりではない。父が貰った千人一人の美人を兄武貞が処にやられたのにも怒らんだが、まさか口に出して争う事が出来ないので心中只だ焦ら焦らであった。
 父が死んだり二代目の兄が死んだりの三代相続の度毎に自分が家を起こした武則と云う初代の愛子であると云うので相続の野心満々であったが、如何に野心があっても末子か愛子であったと云うだけでは相続を表て立って争うと云う理由はなさないので其都度兄や甥を らんで心中 々の焦り方をすると云う。成らないのがあたり前なのか思う通りにいかないのを怨んで 々とやせる身の程知らないうつけ者であったから始末におえない者であったのだ。
 それから清原家にもう一人丁度武忠を縮図にしたような者がいたのに家衞と云う者であった。これは武忠が長兄武貞が千人に一人の美人であると云う女性を戦功で賜ったと云う女の腹から翌年生まれた武忠が甥で、三代実衞が異母弟と共に又其女性が連れ子である藤原清衞には異父弟であった。此家衞も二代武貞が若い美人の女房が生んだ末子と云うので父が寵愛無二であったので、叔父武忠と非常な意気統合の間柄せとなって三代の異父実衞に反目の中となっておると云う。其の様に当時の戦争に敗戦がわの女性を戦利品として有功の将士え分かち与うる習慣は、今世の人には考えられない非人道のことであるが、当時としてはそれを以って普通の事として怪しまぬ事は事実であったから驚くの外ないのである。
 又藤原清衞も母の連れ子で、成人したので兎角く折り合いが主将の実衞には反目の中であったのである。そうした中にも三代実衞は一門の主権者の君主である以上は君は君、たとえ一門中の年長古老といえども臣は臣として臣礼を尽くして仕るのが普通とした当時であるから武忠実衞等のような存在は平和を以って通す難きとするものであったと云うもの

卯の花姫物語 5-⑦ 清原氏其ノ後の興亡史

清原氏其後の興亡史
 先年前九年役戦後の論行に際して頼義が朝廷に奏請したのに、勲功随一の殊勲者としてやったので、清原武則が鎮守府将軍に任ぜられて、奥羽両州の覇者となって其の一門は、繁栄を極めたことは既述の通りである。
 処がそればかりではなく、先きに衣川城落城の時、城中に囲っていた千人の美人の女がいたのを生け捕りにしたのを、有功の将士え当座の御賞賜として分ち与えたと云うことである。
 今、世の人からそんら非人道極まることと思うのであるが、其当時は最も都合の良い戦利品として取り扱って別に不思議と思わないのは全く事実であったから驚くの外ないのである。
 以上のようなものであったので勢い其中で第一番の良い女を、一番の戦功者に与えるのは当然の事として行われたのである。戦功第一の清原武則が貰った千人の中で一番の美人として選ばれた女は何者であったかと云う、と賊将の一人で藤原経清が妻で男の子が一人いた女であったのだ。経清が美人を選んでずっと年の違った若い女を後妻にして男の子を生んで清丸と名付けて寵愛を捧げておった女であった。丁度桂江は少し年長の年輩であったが、まま母に該当の人で清丸は異母弟で後の鎮守府将軍藤原清衞の前身である。
 以上のような関係のある美人の若妻を貰った清原武則は、其時既に齢い八十に近い老将であったから世間を恥じて其のままそっくり 男武貞が妻に命じたのである。処が其女が武貞が妻になった二年目に男の子を生んだのである。これは清丸には異父弟で後の家衞はこれである。
 こうして繁昌を極めた清原一門も間もなくして武則は老死した。武則死後の清原氏は二代三代と武貞、実衞に至る三代二十年の間鎮守府将軍を相続して繁昌であった。が、家庭に余りにも複雑で、兎角く一門の和をかいて、内訌に内訌を重ねておった。この終末が遂々、奥州『後三年役』となって表現したと見るのが当たっておるのでありましょう。
 後三年役の戦は、初めから朝廷にそむいた其反人が出たから起こった戦と云うものではないのである。其動機などは本当につまらない小さい事で、常に一門の不和内訌さえなかったなら戦になどはならないで済むような事からであったのだ。

卯の花姫物語 5-⑥ 三淵明神様々の伝説

三淵明神様々の伝説 其の二
 一方それと相呼応して平山にも伝説がある。即ち前述桂江が一男・半三郎経春が末裔の青木家でも、同白姫が神霊御通過の刻限に、累代同家の主人は羽織り袴の盛装になって野川の河原にある平らかな大石がある上に円座をしいて端然と座っておる。前に机を置いて御神酒献前物のお供えを飾って、百目蝋燭二丁を灯ぼし神霊の御通知をお迎えする。
 愈々いつもの刻限になると、それ迄で如何なる晴天であるとも、一天俄かにかき曇って黒雲天運を覆う。神霊頭上を御通過の刻には、ざあざあと大雨が降ってくる。その時、同家の主人は恭や恭やしく低頭半身しておると、頭上の黒雲の中からいともさわやかなる御声で、「半三郎、大儀」の御一言を賜って、ずーと御通過になられると云う。勿ち雨止み雲晴れ、天日晄々と輝き渡ること以前に均しと云うことで、主人は少しも身体が濡れないと云うのである。
 現在では同家の座敷の縁側の戸を開いて、そこに同様の献前物を御飾りして行事を執行しておると云うことである。今、川原にある大石には、円座をしいた痕がありありと付いて残っておると云い伝えられておる。
 更に同家では、神霊の例祭としては姫が命日の八月一日を以って執行する行事を繰り返して今日に至っておるのである。其日には先祖桂江が、姫が命を奉じて安倍ケ館山の牙城を脱出の際に、主君の形見として拝領した二た品を以って、御神体として祭祀した創立であるのを、床の間に安置して献前物御神酒等を捧げて礼拝するを恒例として執行しておるのは、昔に変わることなく継承しておると云う。
 先年私共は例祭日の陰暦八月一日に同家を訪ねて御神霊の参拝を願った。御霊の拝観をも許されたので光栄身に余ることを思って、参拝の上、御形見の御霊を拝観したのである。真に立派な信仰の対象であることを感銘した次第である。注(以上二つの伝説の項は、筆者が若年の頃古老から聞いた記憶のものを、わざと修正等は一切加えず覚えの通りを記述したものである。)
 いざや本文に戻って叙述の順序を推進して、清原氏がその後の興亡史に項を転じよう。姫が終生嫌悪の対照の人物であった斑目四郎武忠が末路を、明らかにして本文の全局を結すばんとするものである。

卯の花姫物語 5-⑤ 三淵明神建立の由緒

 三淵明神建立の由緒と伝説
 其の様に姫が御霊を崇敬して暮らしていた。桂丸は何の虫気もなくすくすくと育っていった。七ツ八ツの頃から、母が学問手習いの教育を授けた上に、武芸にも心して仕込んだと云う女丈夫の母であった。十五才の春を迎えた時、母は自ら元服を加わいてくれた。父が姓其のまま名乗らせるのを世間にはばかった。其のころは未だ清原氏が官領の時代であったので、母方の姓を取り入れて高木氏を青木氏と改めて、母が姓・藤原姓を取って青木半三郎藤原経春と名乗らせたのである。父家経が下の字を頭につけてくれたのである。
 即ち現在、平山で彼の辺野川南岸は寺泉村の領域で明治初期までつづいていた。青木半三郎を家名として累代相伝の同家初代の人となったのである。其人又父母に似て稀代の賢者であった。母に孝を尽くし世の声望最も高く一世にして身代地方豪族を創立した。後住居を(当時の寺泉村)平山野川口に移して拠を構い子孫繁栄家運隆盛連綿として今世に栄えておる。青木氏子孫分布の経路は、平野、西根を中心に其の地一帯に分布広がって現在に至っておるものである。
 今の桂谷地区の住民の人達も、忠臣定七の様な善良の人物が末裔と思うが、その証拠がないのは甚だ遺憾の至りと思うのである。姫が神霊が、総宮大明神も合祀されておるに就いて、古来から面白い伝説が其地に伝わっておるので慈に揚げて見ると次のようなものである。
 昔宮村鎮守の例祭は陰暦七月十八日の夜祭りで十九日の昼祭りであった。毎年姫の御神霊が三淵から宮の御祭りに御招ばれになって、夜祭の晩方から野川を下って御出ましだと云う事である。神霊は雲竜に御乗りになって、野川づいたに御下りだと云うことである。一旦成田村の南極にある『化粧坂の観音様』境内に御降りになって、卯の花の色美しい衣装に御召し替いをして、御化粧をしなおしてから宮の方に行かれたものであったと云い伝えられておる。
 先年私共が其現地調査に行ってみた。丁度野川の鉄橋を北に渡って一寸と北の処で、長井線の鉄道線路から真っすぐ西の田圃中汽車の中からもよく見える極めて小範の境内である。樹木が少しある中に石造御堂の観音様である。御堂に向かって左側に、姫の御霊が御化粧の際に御腰掛けになって御鏡をつかわれた石であると云う。其石の名称が卯花姫御腰掛けの石と呼ばれておるとのことである。