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黒獅子伝説『卯の花姫物語』 7-③ 摂関藤原家と武家政権との批判

   摂関藤原政権と武家政権との批判検討ノ一
註(摂関とは摂政関白太政大臣のことで今の内閣総理大臣と同じ考えて宜しいと思う)

 次に何んと云うても姫と最大の関係者義家(頼義)父子が人物を偲び、藤原氏の摂関政権と武家政権との関係論文を最後の結びに試みたいと思うのである。

 彼当時、摂関の本家氏の長者が天下の政権を掌握した時代に於いて、地方の豪族共が謀叛を起こした。その鎮圧の大将軍は自家の分家で、即ち二流系藤原氏の者から征討大将軍に命じて鎮圧しておったが、後々に藤原家出身の文官の大将軍と云う名ばかりのものでは手におえないことになってしまった。その後は、どうしても武士でなければならない。其中でも最も偉い武士を選んで、征夷大将軍に任じてやらなければならない様な剛の者が、相次いで謀叛を起こす様になったのである。それが即ち源平の武士が抬頭となったのはそれであった。そのように実力のある者が、力の無い者を配下に隷属して素直に仕えておるのを不思議と思わない時代であったから、藤原氏の摂関政権が安泰であったが、それはいつ迄もつづくものではなかったのである。
 やがては来たる人心の帰趨は、天下の覇者たる者は実力のある者がそれに当たる可きは当たり前の事と云うのに覚醒した時代となって来たのである。即ち時の風雲児・平清盛が武将で天下人と云う者になって始めて実現を見たのである。先に頼義義家が相次いで朝廷に尽くした功労の大きかったものに対して、藤原政権が恩賞として報いたものには何ものがあったかと云うと、僅少薄志と云うよりもむしろ惨酷極まる様なものであったのだ。しかし乍ら彼当時の武士が頭の考えは、鬱勃たるの実力を有しており乍らも、尚、藤原政権に従属して大いに励んで欲せんとする処の望みとしては、僅かに京都に於ける位階勲爵に過ぎないと云う幼稚な程に、」なま優しい程度のものであったから、主権者の方は操縦し易すかったのである。
 源氏の武士頼義、義家父子の立場などは、其の望みすら十分には報いてやらなかった。勲功天下を覆いと云う大いなる功労に対して、官階身を飾るに足らずと云う程度にしか与えなかったものである。○に官歴を○んずれば、頼義が位階最も低い始めの国司として相模守に任ぜられた。奥州征討の太功に対してすら正四下位の伊予守に任ぜられたに過ぎないで終った。
 義家また父に同じうして、前九年役の勲功にして従五位下位・出羽守に任ぜられたのである。後三年役の直前頃にようやく陸奥守に任ぜられ、平定して正四下に せられ内裏への昇殿を免るされた以上如 あるのみとは嗚呼・・・

黒獅子伝説『卯の花姫物語』 7-②二つ笠の弐

二つ笠の弐
 五十川村より三船に棹さし上れば、上なる山に花見る人とおほしきをほのかに見あげて。 山からは船 ふねからは桜かな  二流
 青柳の色たれるミ庫のみなみはその昔、藤原政宗(伊達正宗のこと)の長臣・片倉小十郎をして守らしむ。卯花咲けるころ縄張り始めてあくる年、卯の月成就せし書き上げなればとて卯の花の城となづく。国破れて山河あり、城春にして草青みたりとは古翁の言葉なり。年去り年来れども跡とり立つるわざも見えずむなしき堀の跡になみだをそそぐ。
 早わらびや いくねかしとて 指を折る  二流
 卯の花の 名に消え残る 雪寒むし  同人
 宮の野外にて 春風や横さまに飛ぶ 鴬一羽  二流
 卯の花の 城の跡とは 月ほととぎす
 むかしながらの 音をや啼くらん ○ひろし
 跡とへば 名のみ残りし卯の花の おもかげ見する 雪のむら消え  ひろし
 野川しめ切にて 峯の雪 解けて川瀬に 又白し  二流
 岩根打つ 野川の水の高波に あさ日の嶽の 三雪をぞしる  ひろし
  右米府武門
     鈴木 二流
     山ざきひろし

 以上『二つ笠』の本はこれ程立派なものであり乍ら、不思議なことには年月日が記るされておらないのである。惜しいことには、二人の雅人が卯の花城跡を訪れた年月日が従って判らないのである。然し乍ら二流と云う俳人は別な俳諧の各書で散見されておるので、大体、寛政頃から文化の頃に斯道に活躍した人である事が解る。それを根拠に考察すれば多分彼の記事は、文化年代の或年の桜の花時であったと考えてよいと思うのである

黒獅子伝説『卯の花姫物語』 第7巻①時は下って

  • 黒獅子伝説『卯の花姫物語』 第7巻①時は下って
 
 【注】時代は下って、江戸の時代に『二人笠』と題した短歌の記録が残っている。第7巻は、そうした後世からの物語を伝えたい。上の写真は、卯の花城があったと言い伝えられている場所である。現在は、全国で2番目に古い建物である「西置賜郡役所」が残っている場所である。

二人笠の壱
 卯花城が現在の郡役所跡の場所にあったとすれば、今の新しい十日町郵便局の西方一帯は今も相当の高台の地点である。カク大裏の堀は南面の堀で、西にも当然堀が巡っておったでしょう。さらに彼北の窪地は北面の堀で、東の低地体は彼当時最上川の本流が接近しておったのを東堀に当てた、小規模乍ら非常な要害堅固の名城であったでありましょう。
 松川の流れが近かった証拠としては、馬頭観音様の御詠歌にする様に、十番宮村「夜もすがら月を見上げておがむなり。沖の川瀬に立つは白」。あれは現在の様に松川が遠くて長井橋鉄橋のあたりの波立つ様相を読んだのではない。観音様に程近い処にじわじわと白波が押し寄せくる光景をさしてよんだことは云う迄もないことでありましょう。
 前述城の北掘らしい窪地があると云うた。其又北向かいに、更に今一段の高台の地点があって、昔の人は其地名を盲(メク)ら公方(クボウ)と云うていたのである。いつ頃かははっきりしないが旧墓地である。古い桜の大木があって有名である。今も毎春美しい花が爛漫と咲いて数多の人を喜ばせておる。処が其盲ら公方と云う地名が問題である。私の考察では、南の藩の倉庫に対して云うた「御倉窪」を「盲ら公方」と呼び違えられたのが、其のまま呼び伝えられたじゃないかと想像するものである。
 いずれとしても今更千年の後。本当の所を探究して見た処でわかりっこはない。想像推定より仕方がないのである。何人と雖も己が陣営とするに要害の地を選んでおるのは人情である。彼周辺には今の遍照寺の境内なども地形から見ても小規模の陣営には最も好適の処である。いずれとしても其確実のことは判らないのである。
但し昔、吾が置賜の人士は卯花姫や卯花城に就いては、非常に関心が深かった事ことだけが間違いのない事実であったのだ。
 以下二つ笠の本の中から、卯花城に関係した句を抜粋したものを原文のままを次に揚げて其の証左とするものである。

卯の花姫物語 6-⑥ 金沢城落

 金沢城落成の一
 流石英雄の鉄腸も、私的感情によって公私混同するなかれの格言を忘れたでないとした上でも凡てのものには程度と云うものがある。
 事之れまでに至っては義家と雖も人間である。彼が胸間の奥に躍動して止まぬ何ものかがあったことには疑いの余地がなかったのでありましょう。愈々『後三年の役』の終末期に至らん。義家が執った戦法は、糧道さえ立ち切って囲んでおけば此城攻めずして落城すると見切りを付けた。こうした上は味方の一兵と雖も損ずるのを惜しんだのである。稲、麻、竹、葦の如くに囲まれて歳月長きに亙った城中の妻子巻族は全く網の中の魚、檻中の獣に等しい有り様である。今は全く食糧が尽き果てて終わった。飢えにつかれた兵民がひょろひょの惨状は、飢餓道の苦しみも只ならぬ様相となって終わった。
 威勢のいい時威張る奴程、まさかの時には余計に臆病なものである。城の大将・武衡は其例に全く該当した者であった。こうなってはどう仕様もなくなって終わった。あれ程憎い義家に、頭を下げないで助かる可くのない身体になって終わった。今となっては悪口どころの候ではない。
 処が強情者の常として、こんな時にも義家が所へ直々に頭を下げたくない根性がなくならない。恋の争いで負けて、戦いの争いでも負けた奴に直々に首を下げたくない根性であったでしょう。然し乍ら下げたくないと云うた処で、下げて助けて貰わなければ、もげて終う首になったのである。流石の強情者もどう仕様もない。老いに老いた末に、義家が弟に新羅三郎義光と云う人がいた。注(足柄山月下の吹奏で有名になっている人物)。今、副将軍の資格で陣中におるのである。
 其義光が処へ軍使を遣して助命の願いをした。大将の義家が免しを得て貰いたいと云う意味の使いをよこすのである。初めの内は、義光も取り上げないで退けて返していたが、重ね重ね自分を頼ってこられると、人間と云うものは人情にからまれてくるものである。義光兄の処へ行って、彼の様にどんな事になってもよいから命だけを助けてくれと云うのである。あの様な者が命などを取らないで助けて置いたとて此の後、何にをしでかされるものでもあるまいから命だけ助けて、どこかの島へでも流してやったらどうですかと云うて願ってくれたが、義家断乎としていつも退け通しにしておったと云う事である。

卯の花姫物語 6-⑤ 義家.VS.武衡

 義家と武衡は公私共に敵同士
 君前を下がった桂江は帰り土産として、君より莫大なる御下賜品の数々を拝領した上に、三人の軍兵を護衛兵として付け下されたのに送られて、吾が家を差して帰途についた。弟の藤原清衡は見送りとして一里程送って来てくれた。そこで別れる時も、「くれぐれも君を大事と忠勤を励むに怠りなき様に。」と云うて、袂を分かち帰って来たと云うことである。
 これは後のことであるが、『後三年役』が終わった。戦後の将士の論行に際して義家が、藤原清衡をもって勲功第一として、奥羽二州の覇権者に任ずる様に朝廷に奉請したのである。
 これは全く英雄・義家が慧眼である。清衡が人物の優れておるのを見逃しておかないのは勿論と共に、あの様な優秀な人物を奥羽両州に据えておけば彼地の平和は大丈夫と見込んだのがああたらしめたのである。されにしても後から降参した人に対しての論行としては、余りにも重きに過ぎる様な思いがするのである。それを思いこれを思うに考えて見た時に、先に君前に於いて弟・清衡に能々訓を与えた上に、君へ願って弟の事を頼んでおいたことの両方を思い合わせて見たならば、義家が胸間の奥底を往来した何ものかの、そこにはそこがある様な考えをさせられるものである。
 半三郎経春も戦いが終わって君が京に帰る時に、主君と母とが約束に基づいて漠大の御賞賜を君より御暇賜って故郷の母が許へと帰ってきた。前述武衡が櫓の上から義家にむかって罵声をあびせかけた事については、義家を怒らせて透い出し討取ってしまう計略であったのも去る事であったが、それにしても先年以来義家とは恋の敵として、胸に秘めおいた怨みがある。それが今度は戦として相対する関係となったから、彼が義家を憎む度合いが一層強烈を極めたのであった。而してあの様な思い切った罵倒となって現れたのである。然しながら義家が方でも、彼を憎む度合いが同様であった。先頃桂江が訪問によってすっかり判った。姫が彼の為に悲恋のままで無惨の最後を遂げた事を知ったと云うに至っては。嗚呼、悲し也