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卯の花姫物語 5-⑬ 賊将二人の降参

賊将二人の降参
 籠城の中で大将かぶの一人に吉彦秀武と云えば既述の通り、興戦の火おこしをした人であるにもかかわらず、こう云う事を考えたのである。元から木一本の短気者の老人であったからこそ、あんな事も仕出かしたと共に、今度はこんな事もしたと考えるのは当たっているのである。俺は一たい実衡の奴が自分を馬鹿にしたからこそ戦い迄して彼らをやっつけてしまいたい心算りでいたのだが、今度奴が死んでしまった上は何にも八幡殿に怨みがない俺である。何人でもない人と戦いする意味はない、意味をなさない戦いをしてはいられないと考えて、しゃあしゃあと戦いの張本人であり乍ら城を抜け出して降参をして来た。降参の理由としてそう語って来たと云うことであった。如何に気一本の人だからと云っても、余りにも早速な非道なひどい戦いの張本人もあったものと、籠城軍のがわからはそう思われたのであったろう。更にそればかりではなかった。平常武衡、家衡とも余り気の合わないのを見ておった藤原清衡の処も行きかけの駄賃に、御前もこんな処にいつ迄もいるとろくな事がないから八幡殿に降参して俺と一緒に出て行く様にと進めてさっさと連れ出して来たと云う事であったのだ。今では義家に無二うの忠心を励んでおると云う事である。
 一たいこの清原氏一門の家庭は一門の仲が悪いと云う事もあったが、又非常に複雑を極めたもので図解でも示さないと一寸判らない程にめちゃめちゃと複雑した家庭であったのである。参考に系図の略図を左に書いて示して見れば、こんなものである。

卯の花姫物語 5-⑫ 清原主将・実衡陣中に没す

清原一門の主将実衡急病陣中に没す
 義家が始から戦いをする気で来たのではないからとしたとて国司に任ぜられて来て、此の戦が始まった処に来当たった以上は当主の実衡を助けて彼にそむいた若共を追討するのは国司としての任務たるのは当然であるので実衡と共に戦場に臨んで指揮を執った。処がそむいた方でもばらばらになっていてはだめだと考えたので三人の軍勢一つに合体して出羽の国沼の柵の要塞にたてこもって頑強に抵抗したので流石の義家も攻めあぐんで一旦国府へ引き上げて来た。
 こうした様子を見透かした武衡であった時こそ来れりと喜んだ。先年武忠時代から義家とは恋敵として憎んでおったので、実衡よりも一層の憎い義家であるから憎い奴と憎い者との合体だから尚一層の怒りを増したのが手伝ったから、そこへ加えて戦いの状態が少し好転したと見えて取ったので否応なしに叛乱に合体したのである。
 賊軍の方では兵気大いに揚がったと云う状態となった。然し乍ら武衡如き眼でそう見えたとて名将義家が胸中が判るものではないのである。名将程要塞堅固の攻城戦に於いて血気にはやった猛攻をしていたずらに将兵の生命を損せぬ可くに心を配るに油断をしなかったものである。義家の方では全く叶わないから逃げたと見たのは武衡のような奴輩が見当のつけかたのはそうであったが、彼の柵を討ち破るにはもう少し味方の陣容を立て直してから更に向かうのが適当と思いついて一旦引き上げたのを逆くに判断して向こうに就いた武衡が見当違いであったのだ。そうした間にも賊軍の方武衡も加わって相当の大軍になったので沼の柵の城では手狭であると云うので出羽の金沢の棚に拠って防ぐ事とした。今の新庄市の付近である。
 官軍も金沢城を包囲して対 の陣中である内にこちらの主将清原実衡は突然の急病で死んでしまったと云う一大椿事出来に及んだと云う事である。
 実衡が死んだからとて叛賊を討ち平らげないでいられるものではないから義家は少しも手をゆるめずに包囲を厳しく守備を怠らないでおったが、城中の敵の方にも突如として一大損失の椿事が起こったのである。それは又次のような次第である。

卯の花姫物語 5-⑪ 戦争の動機

戦争の動機
 すると秀武老人の方では大いに怒って何たる不遜の態度にも程がある、俺も一門の老人である。年寄りに対する礼を知らぬ若輩者と一徹短慮の秀武老人捧げた黄金庭石目がけてたたきつけ門外に出て家来を連れてしやしやと本国出羽に帰って終った。怒ったのは実衞の方でも同様であった。俺が知っておるのだったらともかく、本当に気が付かないでおったのに怒って目出度い祝日にケチを付けるとは故意にしたやり方だ、ただでは済まされないと云う見幕である。戦いの怒った原因はそんな事であったとは清原一門の和が整って平常泰山の国家大勢であったならば、あれしきの小さい事は一門の中から別人が行って両方をなだめて治めるくらいは何でもない程の小事であったのだ。処が清原一門の不和内訌は武衞を始めとして、これを見てこれは面白い事が始まったものである、願わくば火が大きく広がってくれればよいと云う状態になっておった処であったから耐らないのである。以上奥州後三年の大戦乱が起こった。火の種の大たいの説明としてはこんなものであった。
 一旦の怒りで  玉を破って出羽の本城に帰ってはきたものの、いざ戦いをするとしては自分一人の力では兵力が足りない。勝ち目がないから秀武老人も考えた。兼ねて一門の不和内訌の勢力争いの様子を知っておるから味方して貰われそうな不平分子を選んでそうした連中へどんどん応援を頼んでやった。実衞は軍勢を率いて秀武を討たんとしてやって来た陵を狙って叛いたのは家衞と清衡であった。野心のある事には人に劣らぬ武衡は元来の  者であったから状勢の動行をじっとして傍観しておると云う武忠時代からの古つわものである。すると果たして実衡は家衡と清衡に留守を突かれては耐えられないから今度は其方を討たんとして帰って行った。今度は実衡に帰って来られてはと云って家衡と清衡が逃げて行った。実衡はどっちもこっちも逃がして焦ら々になっておった処へ、丁度京から義家が陸奥守に任ぜられて来たのであった。この義家が来たのは始めから追討大将軍で来たのではない。陸奥守に任ぜられて国司として来て到着した。処がこの騒ぎにはからずも出つかわしたのである。

卯の花姫物語 5-⑩ 清原一門 内訌の説明ノ弐

清原一門内訌の説明ノ二
 清原氏一門も三代実衞が代となった頃には同家が奥羽の天地で覇者となった基いを開いた。武則が子で健在の人は相次いで物故して、武忠(斑目武忠)只一人となって残っていたのである。
 一門最古老の元勲として一門に重きをなしてはおるとしても、主君ではない。甥実衞が家来には間違いのない臣礼をとって仕えねばならない。彼はそれが不満でたまらなかった。彼が考えた事には、吾れは一門中第一の重臣元老として威張っておるのに、元の斑目四郎では貫禄がないような気がしてならなかったので、元の清原姓に復して清原武忠を清原武衞と名前も替えていた。苗字を清原に改めたとて武忠を武衞に直したとて、人間と根性に変わりがなかったのだ。彼が倣慢不遜の振る舞いは以前に勝るともちっとも劣ってはいなかった。彼が行いは飽迄で元の武忠で何か乗ずるに都合がよい事あれかしの機会ばかりを狙っておる始末である。
 こうして武衞が欲望を逞うする隙を狙って暮らしておる内に思いも掛けぬ端なくも奥羽二州の天地が驚天動地の大戦乱になる導火線に火がついたので兼々清原一門の不平内訌が轟然として大爆発をしたのである。奥羽後三年の役と称した大戦乱とは即ちそれである。
 戦争の全体を説明するのを省略して、どうして起こったのであったかと、どう云う事に終わったかの概要だけを書いて見れば次の様なものであった。其戦の起こった導火線をなしたことと云ったら本当につまらない小さいことから始まった事件であったのだ。三代の当主実衞に子供がなかったので養子の相続人であったので、それに御嫁をとるときの婚礼式の日であった。その日の御嫁さんと云うのは前九年役の際に大将軍源頼義がある女性に を落として行ったのが、生まれたのが成人した人であったとのこと、落と の娘でも源氏の大将の娘と云う立派なものであるから、清原氏正統の相続人との縁組で、それは相当であるからそれでよかったが、それとは別な事である。其当日のこと清原一門の古老に吉彦秀武と云う老人がいたのが、たとえ一門の古老でも臣は臣であるから自ら御祝いを持ってわざわざ出向いて来た朱塗りの広蓋に黄金をうづ高く積んだのを秀武老人が自ら頭上に捧げて恭々しく祝意を述べたが、丁度其時実衞がある奈良法師と碁を囲んで夢中になって振り向いても見なかったと云うことであった。

卯の花姫物語 5-⑨ 清原一門、内訌の弐

清原一門内訌の説明ノ二
 清原氏一門も三代実衞が代となった頃には、同家が奥羽の天地で覇者となった基いを開いた。武則が子で健在の人は相次いで物故して、武忠只一人となって残っていたのである。
 一門最古老の元勲として、一門に重きをなしてはおるとしても主君ではない。甥実衞が、家来には間違いのない臣礼をとって仕えねばならない。彼はそれが不満でたまらなかった。彼が考えた事には、吾れは一門中第一の重臣元老として威張っておるのに元の斑目四郎では貫禄がないような気がしてならなかったので、元の清原姓に復して清原武忠を清原武衞と名前も替えていた。苗字を清原に改めたとて武忠を武衞に直したとて人間と根性に変わりがなかったのだ。彼が倣慢不遜の振る舞いは以前に勝るともちっとも劣ってはいなかった。彼が行いは飽迄で元の武忠で何か乗ずるに都合がよい事あれかしの機会ばかりを狙っておる始末である。
 こうして武衞が欲望を逞うする隙を狙って暮らしておる内に思いも掛けぬ端なくも奥羽二州の天地が驚天動地の大戦乱になる導火線に火がついたので兼々清原一門の不平内訌が轟然として大爆発をしたのである。奥羽後三年の役と称した大戦乱とは即ちそれである。
 戦争の全体を説明するのを省略して、どうして起こったのであったかと、どう云う事に終わったかの概要だけを書いて見れば次の様なものであった。其戦の起こった導火線をなしたことと云ったら本当につまらない小さいことから始まった事件であったのだ。
 三代の当主実衞に子供がなかったので養子の相続人であったので、それに御嫁をとるときの婚礼式の日であった。その日の御嫁さんと云うのは前九年役の際に大将軍源頼義がある女性に を落として行ったのが、生まれたのが成人した人であったとのこと、落と の娘でも源氏の大将の娘と云う立派なものであるから、清原氏正統の相続人との縁組で、それは相当であるからそれでよかったが、それとは別な事である。其当日のこと清原一門の古老に吉彦秀武と云う老人がいたのが、たとえ一門の古老でも臣は臣であるから自ら御祝いを持ってわざわざ出向いて来た朱塗りの広蓋に黄金をうづ高く積んだのを秀武老人が自ら頭上に捧げて恭々しく祝意を述べたが、丁度其時実衞がある奈良法師と碁を囲んで夢中になって振り向いても見なかったと云うことであった。