摂関政権批判検討の二
以上の様に難儀して務めても報いが少くないのに、自分は何にも云わないで耐えてよいとしても、自分が部下にも其通りにしてもよいと云う訳にはいかんのである。それに困って頼家が朝廷に願った請願書がある。昔の原文は漢文であるがそれをやくしたもののままを揚げて、当時の武将が如何に気の毒なものであったかの様相の参考にしてみましょう。
(日本外史抜粋に拠るもの)
伊与守源頼義請願書
臣聞く、人臣勲功をたてて恩賞を受くるは和漢古今同じきところなり。これを以て或は下財より起りて勲賞をかけ、或は兵卒より出でて将相にいたる者ありと。頼義は功臣の子孫として生まれ、国事に精勤努力すること久し。たまたま東夷蜂起して郡県を侵盗し、人民を椋めとって、六郡をあげて皇威に服せざること数十年。近年に及んでは日にますます○○なり。
頼義、永承六年を以て任を彼国に受く。天喜中にいたって鎮守府将軍の職を兼ぬ。臣天皇の詔をふくみて、虎狼の国に向く。堅甲を被り利刀を帯し、身に矢石を受けつつ、千里の外に暴露し萬死の境に出入す。
天子の威と将卒のちからとをかりて、終に其功を奏するを得たり。其賊将・安倍貞任、藤原清経等みな伏して音を京師につたふ。余の醜慮 安倍宗任ら手をつかねて降りその巣窟をはらい、これを県官に差し向けぬ。叛逆の徒みな王民となる。乃ち功績は朝廷の記録にとどめられ、伊予守たるを受け得たり。臣聖恩をかたじけなうし、謹みてこれを受け奉る。
しかも残余の賊を鎮服するがために尚奥州にとどまる。且つ征戦の際、功労ある者十余人彼等の為に抽賞を乞えども未だ裁許を得ず。ために任地におむかず。去年九月、任府を賜わる遅引の罪やむを得ざるに出ず。(御ことわり其請願書余り長文により次号にわたるを御免ゆるし下されたい)
黒獅子伝説『卯の花姫物語』 7-④ 摂関家批判の二
2013.01.27:orada:[『卯の花姫物語』 第7巻]
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