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黒獅子伝説『卯の花姫物語』 7-⑪ 編者の独白

 長井の超長~い物語の最後の最後まで読んでいただいた皆様に、心からの感謝を申し上げるとともに、その忍耐強さには敬服いたしております。(笑)
 さてこの物語の原作者は菊地清蔵さんという方で、「おらだの会」会員の菊地鉄夫さんの祖父です。菊地さんには、「おせきの物語」に続いて「卯の花姫物語」をこのホームページに掲載することにつきまして、快くご了承いただきました。この場をお借りして改めて感謝申し上げます。また、この原稿制作にあたって、大変なご尽力をいただいた孫田ヒロミ様にも、心からの感謝を申し上げたいと思います。
 本日、ようやく完結することができました。少しは、菊地清蔵さんの思いを後世に伝えることができたかなと思い、正直、少しホッとしているところです。「道の奥」で「川の奥」でもあるこの長井の地に、東北全土覆った日本の歴史のはざまの中で、愛と義と優しさに生きた人々の物語があったことを、うれしくまた誇らしく思うものです。
 最後に、この物語を最後の最後まで読んでくださった皆様へ。もしも機会がありましたら、長井に足を運んでいただき「黒獅子祭り」や卯の花城の跡が残る「文教の杜」においでください。その際は、当然ながら山形鉄道に乗り、かの有名な『羽前成田駅』まで足を伸ばしていただければ存じます。変な会長がお待ちしております。

 さて、次の時代には、この地にどんな物語が生まれるでしょうか、乞うご期待です。本日はこれをもって、千 秋~楽~~~!ようーぺぺんぺん((笑))

黒獅子伝説『卯の花姫物語』 7-⑩ 愈々最終章

摂関政権批判検討の結び
 奥州『後三年役』の後に、義家が功労のあった部下の将兵にも論功行賞をして貰いたいと云うて上奏をした時なども、例によって朝廷公家が長論議の揚げ句の返答に、「彼の戦は、私闘の戦と認めたので朝廷で論功行賞をする筋合いのものでないと決議」と云う申し渡しであったとは呆れたものである。最も彼の戦が始まったのは清原一門の内訌から出発しておるとは云うても、愈々戦さになってしまった以上は、京都朝廷で任命した鎮守府将軍に叛むいた者共を追討するのは、当然逆賊征伐の戦争に間違いのないのは事実である。
 又義家が陸奥守と云う国司の立場から実衡を助けて戦っておった中途に、実衡が病死したからとて、今迄で戦っておった反逆人の者共をそのままにしておかれるものでないのは当然の事である。ひきつづいて義家が追討の巧を遂行したのである。これを以て私闘の戦さとは何事である。只戦になる前の争いが清原氏一門の内訌が原因であるのを、恩賞を与えたくないのにそれを狙ってかこつけにしたと云うものである。義家が日頃君への忠心深い性格から、それでも朝廷を恨もうとはしなかった。
 情が篤くて仁心深い義家が、私財を投じて有功の武士を厚く報いてやったと云う。(情けは人のためならず)慶を子孫に延ばしたとはそうしたことでありましょう。やがては来たる彼が子孫から、鎌倉右大将頼朝と云う不世出の英雄が出て、坂東の武士を配下とした基盤に立って鎌倉幕府の創立となり、つづいて室町幕府、更に江戸幕府と何ずれも彼が子孫である。その後の七百年の基盤となって明治維新に至っておる。
 以上摂関政権と武家政権との対照批判を試みて、愈々本文完結の挨拶に替えさせて戴きます。  終わり
昭和三十七年九月五日
            菊地清蔵

黒獅子伝説『卯の花姫物語』 7-⑨ 摂関家批判の七

摂関政権批判の五の中の藤原忠文ノ四
 其後の彼は死を決して全く食を断って、かみひげは伸びるに任せ、爪も切らずに伸びほうだい。生き乍らの魔王となって形相もの凄く、毎日毎日罵り叫んで力に任せて拳を握ったので、両の手八本の爪八ツが手の甲を突き通し、鮮血だらだらと流れ出る有様。俺はこうして不遇のままでこの身を終わるのであるから、其の後ち神となって、不遇の人達が身の安全を護ってやろうと口走りして、悶々の中に同じ事をくり返して遂う々悶死をして終わったと云う。如斯にしてあったら雄偉の朝臣参議忠文は、豪奢極る摂関政権が与え嫌い政策の犠牲となって、怨みを呑んで死んで終ったのである。
 一方関白家でも忠文がおのが一家を恨んで怨み死にしたと云う噂を聴いたので、其崇りを恐れ恟々として怯えておる内に次の様なことが起こったのである。
 其先き朝廷で行われた論功行賞会議の際に、座長格は関白忠平たるは当然であったが、彼が次男の中納言師輔は忠文無賞論に大反対した。云わく、「其論議は不当でありましょう。忠文は途中で引き返したと云うても、戦さが終わったからで何も臆病で逃げ帰ったと云う訳でないから当然の行動である。東国の戦況が好転したのも偏に忠文の様な器量優れた人物が、征討大将軍で大軍の進軍途上があればこその好果を得たのである。忠文に功労無いとは云われまい。」と云う堂々たる論法であった。しかし、父忠平と長男の大納言実頼は頑として無賞説をとなえて承知しなかったと云う。(其の頃は己に関白家の実権は大納言実頼が握中にあったのである。)そうした故によって実頼は非常に恐れ怯えて暮らしておる内に間もなく彼が男の子と女の子の二人がえたいの知れない不思議な病気で相次いで死んだと云う。世間ではそれ見ろ忠文を悶心させた天罰だと云うた。実頼自身もそう思ってますます怯えおののいた。遂う愈々彼が怨霊を慰めんとして、立派な御祠を建てて神に祀ったのが今京都の宇治にある「離宮明神」と云う神社は即ちそれである。(註 不遇の人が御まいりすると開運に霊験あらたかの神様だと云われておる)
 以上の様に、凡て摂関政権の持主氏の長者関白家では、己が一家ばかり天子も及ばぬ賛沢ざんまいに暮らしており乍ら、下の者に与える恩賞を否定したものである。何かにかこつけては出さない工面をしたものであったと云う。

黒獅子伝説『卯の花姫物語』 7-⑧ 摂関家批判の六

 政権批判五の中の藤原忠文ノ三
 以上述べた様な気性の人物であったから、此度自分が総大将の地位にあり乍ら全くの論功行賞を反故にされたと聞いた時の怒り方と云ったら大変である。
 余りと云えばあまり、無法にも程がある。朝廷で俺を征討大将軍に適任と認めて任命したのである。総大将として指揮権の任を執って、諸国の軍勢を召集するのに士気が振って応ずると否とは、一偏に大将軍の器量の如何んによって決定するものである。
 東国の戦地に於ける者共が早速の成功と雖も、即ち総大将の器量に関係する処によるものたるのは言を要せぬことである。此処に忠文が進軍の途上に於いて、已に戦勝の自信を以って余裕綽々たるのさまを書いて見よう(出征途上の詩)
   漁舟火影寒焼浪
    ぎょしうのひのかげは、さむうして、なみをやく。
駅路鈴声夜過山
    えきじの、すずのこえは、よるやまをすぐ。
右は忠文官軍を率いて進軍の途次駿州清見ケ関の風景を感賞して一詩を賦したものである。
 彼が大将軍としての自負心強く戦勝を期して洋々たるの様相をうかがい知るものである。それに何ぞや。現地の武士共や貞盛徒輩のみの功名ばかりとの行賞とは何事である。今度の戦争に関する限りは、戦地の者と曰わず出征途上の者とを問わず、すべからく総大将たる拙者が指揮権下で、曰わば家来同然の奴輩である。
 彼等とて背後に器量優れた大将軍が卒いる官軍の大軍が進軍して来ると云う威勢を背景にしたからこそ、現地の軍勢終結に安々と成功したし、応募者の方でも早く応じたので、速やかに追討の功を奏したのである。そうした関係にある最高指揮者の権限に任じておき乍ら全く行賞無したとは、人を馬鹿にした仕打ちだと云うて怒髪天をつく有り様。今は世人に顔の向けどころがない俺が面目は丸潰れと云うて、関白が官邸の方をはったと睨んで罵り散らし、毎日毎日罵りつづけておると云う。

黒獅子伝説『卯の花姫物語』 7-⑦ 摂関家批判の五

政権批判五の中の藤原忠文ノ二
 こうして忠文は鷹を使う術にかけては、十八秘法、三十六口伝、異朝の奥儀まできわめざるはないと云う大の鷹通であったのだ。
 頂度其頃、醍醐天皇第四皇子重明親王と云う方も大の鷹狩り好きであったので、或日忠文が宇治の邸に御出でになって、彼が日頃愛しておった秘蔵の鷹をくれろと云って所望された。忠文は惜しい思いであったが、向こうは親王様のことでもあれば断る訳にもいかない。仕方ないから二番目のものを献上した。親王は大喜びで帰途に就いた。途中で殿を見つけたので、早速鷹を放って合わせて見たら鷹がそれて逃げて行ってしまった。親王は大いに怒って忠文が邸に戻って来た。あんなものをくれたとは非道い奴だと云うてせめたのであった。
 すると忠文が云うには、こちらに今一羽あれよりよいのがありますが、あの鷹は親王様が御使いになるには御無理かと思って、其次のものを差し上げたのでありましたが、あれでもだめでありましたかと云うて、それでは致し方がありませんからと云うて今度は一番目の名鷹を出して、「よくよく御気をつけて御使い下さいませ。」と云うて差し上げた。親王は忠文が云うた言葉の意味が判らないで帰って行ったのである。又も途中で使って見たら忠文が云うた通りに逃げられてしまった。
 鷹だろうが馬だろうが、彼らの方では使い主や乗り手が技術の巧拙程度をちゃんと知っておるものである。そこで親王はつくづくと考えてみたが、はっと気がついて始めて、さっき忠文が云うた言葉を理解したと云うことであった。
 こういう風に忠文の人物は何事にかけてもぐんと一流をぬいた、当世卓出の紳士であったのだ。又一旦、人に頼まれ事を引き受けたとか或は自分が思いたったとかのことは、徹底的にやり遂げないでおかないと云う精神力の強い人であったと云う。