黒獅子伝説『卯の花姫物語』 7-⑨ 摂関家批判の七

摂関政権批判の五の中の藤原忠文ノ四
 其後の彼は死を決して全く食を断って、かみひげは伸びるに任せ、爪も切らずに伸びほうだい。生き乍らの魔王となって形相もの凄く、毎日毎日罵り叫んで力に任せて拳を握ったので、両の手八本の爪八ツが手の甲を突き通し、鮮血だらだらと流れ出る有様。俺はこうして不遇のままでこの身を終わるのであるから、其の後ち神となって、不遇の人達が身の安全を護ってやろうと口走りして、悶々の中に同じ事をくり返して遂う々悶死をして終わったと云う。如斯にしてあったら雄偉の朝臣参議忠文は、豪奢極る摂関政権が与え嫌い政策の犠牲となって、怨みを呑んで死んで終ったのである。
 一方関白家でも忠文がおのが一家を恨んで怨み死にしたと云う噂を聴いたので、其崇りを恐れ恟々として怯えておる内に次の様なことが起こったのである。
 其先き朝廷で行われた論功行賞会議の際に、座長格は関白忠平たるは当然であったが、彼が次男の中納言師輔は忠文無賞論に大反対した。云わく、「其論議は不当でありましょう。忠文は途中で引き返したと云うても、戦さが終わったからで何も臆病で逃げ帰ったと云う訳でないから当然の行動である。東国の戦況が好転したのも偏に忠文の様な器量優れた人物が、征討大将軍で大軍の進軍途上があればこその好果を得たのである。忠文に功労無いとは云われまい。」と云う堂々たる論法であった。しかし、父忠平と長男の大納言実頼は頑として無賞説をとなえて承知しなかったと云う。(其の頃は己に関白家の実権は大納言実頼が握中にあったのである。)そうした故によって実頼は非常に恐れ怯えて暮らしておる内に間もなく彼が男の子と女の子の二人がえたいの知れない不思議な病気で相次いで死んだと云う。世間ではそれ見ろ忠文を悶心させた天罰だと云うた。実頼自身もそう思ってますます怯えおののいた。遂う愈々彼が怨霊を慰めんとして、立派な御祠を建てて神に祀ったのが今京都の宇治にある「離宮明神」と云う神社は即ちそれである。(註 不遇の人が御まいりすると開運に霊験あらたかの神様だと云われておる)
 以上の様に、凡て摂関政権の持主氏の長者関白家では、己が一家ばかり天子も及ばぬ賛沢ざんまいに暮らしており乍ら、下の者に与える恩賞を否定したものである。何かにかこつけては出さない工面をしたものであったと云う。
2013.01.27:orada:[『卯の花姫物語』 第7巻]

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