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黒獅子伝説『卯の花姫物語』 7-⑥ 摂関家批判の四

 摂関政権批判検討の四の中の藤原忠文ノ一
 其状態を見るに忍びない頼義が、私財で税金を立て替えて助けてやったと云う。しかも其立替金は自分に持ち合わせの金が無かったので、借金であったと云うに至っては、愈々気の毒な思いと共に、頼義が人となりを偲ぶに足るものである。
 そうした事を考えて見れば、もうそろそろ藤原氏の摂関政権が武門の政権に替えられていく因果の胚子を生みつつあった様子がありありと判るのである。そんな状態に永続の性質がある可き道理がない。やがては来る武門政権の実現となったのも当然の帰結と云うものである。藤原政権が、人をさんざん使った揚げ句に恩賞を惜しんで事件を起こした事が数々ある。中のおもなる一例をあげてみよう。以前天慶三年の二月に平将門が東国で謀叛を起して威勢を振った時も京では大狼狽した。
 其時、征討大将軍に任命されて征途についた人は藤原忠文と云う文官出の大将軍であった。処が其官軍が、戦地迄で到着しないうちに、東国では土地の武士藤原秀郷や平貞盛等の為に、将門はもろくも討伐されて戦が終わってしまったので、忠文は途中から京へ引き返した。其途中から引返したと云うのにかこつけて、時の氏の長者関白藤原忠平が恩賞を与えない。処で其征討大将軍の忠文は頼義の温厚な人だと事が起こらないで済んだのであったが。
 この忠文と云う人はそうはいかない性格であったから只では済まなかったのである。(もしや其人は文官でなくて兵力を持っておる武将であったら謀叛を起こすかったかと思うのである。)
 元来この人は当時公家出の文官には一種変わったところのある人物であった。丁度武士の様な性格で、剛直果断気概隆々とした硬骨漢であった。もっともそれだからこそ此度の征討大将軍になども選ばれたのであったでしょう。一面忠文についてはこんな話もあるのである。鷹匠としても非常な名人で神に通ずる様な妙技のある人であった。従って常に素晴らしい鷹の逸ものを沢山飼っておったと云う。

黒獅子伝説『卯の花姫物語』 7-⑤ 摂関家批判の三

 摂関政権批判検討の三
 四年の任空しく二年を過ぎ、年貢を徴収する能はず。面して貴族直属の租税取り立ての役人の督促甚だしきこと雲の如し。よって私財を以て、しばちく立替いおけり。彼国の官吏の言を聞くに、年々早凶にして田に秋実なく民に菜食ありと。臣謹みて隣国の前例を ずるに任期の年限を延長して。その国の疲弊を救済せる国司まことに多し。いはんや希代の巧を致せる者いづくんぞ特別なる恩賞なからんや。
 昔、班超は三十年を以て西域を平ぐ。今、頼義十二年を以て東夷を討平す。遅速優劣の判断いずれぞ。たとい千古の封を受くることなからんも、なんぞ重任の恩典を許されざらん。天恩を望請す。臣が意を哀 し。 なくも御認可を賜い臣をしておむろに。復興の計をなさしめ。もっと負債を弁済する方法をたてさせられよ。臣真情を呈して請願すること如件云々。
(以上日本外史の一節抜粋に処るもの)
 右の一文を読んで見ても、藤原氏の政権がどうしてこの様に国家の為に身を尽くしたのに報いる恩賞をおしんだものかは一寸は考えられない様なものとは云うて見た処で、結局自分等は氏の長者として政権をほしいままに振る舞い余りにも豪奢を極めた暮らしをして財政に余裕がなかったのが原因であったと判断するより外ないと考えるのである。
 当時の武将が、如何に気の毒なものであったかの様相がありありと判るのである。十有余年も遠国に行って強敵と戦って、寒さと闘いと飢いと戦いして生死の巻を彷徨して朝廷国家のためにつくし軍功をおさめて、面して後に賞賜として得たものは何ものかと云うと、僅かに新任の国司に任ぜらたのみであったとは。処が其ようやくにして得た新任の伊予の国が、大凶作の年であったと云うことである。 更にそうした上に其国でも、京都の貴族に直々に入納しなければならない分の租税があったので取り立て役人が困って入る。人民から無理無理の督促の状態は目に余るものであったと云う。

黒獅子伝説『卯の花姫物語』 7-④ 摂関家批判の二

摂関政権批判検討の二
 以上の様に難儀して務めても報いが少くないのに、自分は何にも云わないで耐えてよいとしても、自分が部下にも其通りにしてもよいと云う訳にはいかんのである。それに困って頼家が朝廷に願った請願書がある。昔の原文は漢文であるがそれをやくしたもののままを揚げて、当時の武将が如何に気の毒なものであったかの様相の参考にしてみましょう。
(日本外史抜粋に拠るもの)
 伊与守源頼義請願書
 臣聞く、人臣勲功をたてて恩賞を受くるは和漢古今同じきところなり。これを以て或は下財より起りて勲賞をかけ、或は兵卒より出でて将相にいたる者ありと。頼義は功臣の子孫として生まれ、国事に精勤努力すること久し。たまたま東夷蜂起して郡県を侵盗し、人民を椋めとって、六郡をあげて皇威に服せざること数十年。近年に及んでは日にますます○○なり。
 頼義、永承六年を以て任を彼国に受く。天喜中にいたって鎮守府将軍の職を兼ぬ。臣天皇の詔をふくみて、虎狼の国に向く。堅甲を被り利刀を帯し、身に矢石を受けつつ、千里の外に暴露し萬死の境に出入す。
 天子の威と将卒のちからとをかりて、終に其功を奏するを得たり。其賊将・安倍貞任、藤原清経等みな伏して音を京師につたふ。余の醜慮 安倍宗任ら手をつかねて降りその巣窟をはらい、これを県官に差し向けぬ。叛逆の徒みな王民となる。乃ち功績は朝廷の記録にとどめられ、伊予守たるを受け得たり。臣聖恩をかたじけなうし、謹みてこれを受け奉る。
 しかも残余の賊を鎮服するがために尚奥州にとどまる。且つ征戦の際、功労ある者十余人彼等の為に抽賞を乞えども未だ裁許を得ず。ために任地におむかず。去年九月、任府を賜わる遅引の罪やむを得ざるに出ず。(御ことわり其請願書余り長文により次号にわたるを御免ゆるし下されたい)

黒獅子伝説『卯の花姫物語』 7-③ 摂関藤原家と武家政権との批判

   摂関藤原政権と武家政権との批判検討ノ一
註(摂関とは摂政関白太政大臣のことで今の内閣総理大臣と同じ考えて宜しいと思う)

 次に何んと云うても姫と最大の関係者義家(頼義)父子が人物を偲び、藤原氏の摂関政権と武家政権との関係論文を最後の結びに試みたいと思うのである。

 彼当時、摂関の本家氏の長者が天下の政権を掌握した時代に於いて、地方の豪族共が謀叛を起こした。その鎮圧の大将軍は自家の分家で、即ち二流系藤原氏の者から征討大将軍に命じて鎮圧しておったが、後々に藤原家出身の文官の大将軍と云う名ばかりのものでは手におえないことになってしまった。その後は、どうしても武士でなければならない。其中でも最も偉い武士を選んで、征夷大将軍に任じてやらなければならない様な剛の者が、相次いで謀叛を起こす様になったのである。それが即ち源平の武士が抬頭となったのはそれであった。そのように実力のある者が、力の無い者を配下に隷属して素直に仕えておるのを不思議と思わない時代であったから、藤原氏の摂関政権が安泰であったが、それはいつ迄もつづくものではなかったのである。
 やがては来たる人心の帰趨は、天下の覇者たる者は実力のある者がそれに当たる可きは当たり前の事と云うのに覚醒した時代となって来たのである。即ち時の風雲児・平清盛が武将で天下人と云う者になって始めて実現を見たのである。先に頼義義家が相次いで朝廷に尽くした功労の大きかったものに対して、藤原政権が恩賞として報いたものには何ものがあったかと云うと、僅少薄志と云うよりもむしろ惨酷極まる様なものであったのだ。しかし乍ら彼当時の武士が頭の考えは、鬱勃たるの実力を有しており乍らも、尚、藤原政権に従属して大いに励んで欲せんとする処の望みとしては、僅かに京都に於ける位階勲爵に過ぎないと云う幼稚な程に、」なま優しい程度のものであったから、主権者の方は操縦し易すかったのである。
 源氏の武士頼義、義家父子の立場などは、其の望みすら十分には報いてやらなかった。勲功天下を覆いと云う大いなる功労に対して、官階身を飾るに足らずと云う程度にしか与えなかったものである。○に官歴を○んずれば、頼義が位階最も低い始めの国司として相模守に任ぜられた。奥州征討の太功に対してすら正四下位の伊予守に任ぜられたに過ぎないで終った。
 義家また父に同じうして、前九年役の勲功にして従五位下位・出羽守に任ぜられたのである。後三年役の直前頃にようやく陸奥守に任ぜられ、平定して正四下に せられ内裏への昇殿を免るされた以上如 あるのみとは嗚呼・・・

黒獅子伝説『卯の花姫物語』 7-②二つ笠の弐

二つ笠の弐
 五十川村より三船に棹さし上れば、上なる山に花見る人とおほしきをほのかに見あげて。 山からは船 ふねからは桜かな  二流
 青柳の色たれるミ庫のみなみはその昔、藤原政宗(伊達正宗のこと)の長臣・片倉小十郎をして守らしむ。卯花咲けるころ縄張り始めてあくる年、卯の月成就せし書き上げなればとて卯の花の城となづく。国破れて山河あり、城春にして草青みたりとは古翁の言葉なり。年去り年来れども跡とり立つるわざも見えずむなしき堀の跡になみだをそそぐ。
 早わらびや いくねかしとて 指を折る  二流
 卯の花の 名に消え残る 雪寒むし  同人
 宮の野外にて 春風や横さまに飛ぶ 鴬一羽  二流
 卯の花の 城の跡とは 月ほととぎす
 むかしながらの 音をや啼くらん ○ひろし
 跡とへば 名のみ残りし卯の花の おもかげ見する 雪のむら消え  ひろし
 野川しめ切にて 峯の雪 解けて川瀬に 又白し  二流
 岩根打つ 野川の水の高波に あさ日の嶽の 三雪をぞしる  ひろし
  右米府武門
     鈴木 二流
     山ざきひろし

 以上『二つ笠』の本はこれ程立派なものであり乍ら、不思議なことには年月日が記るされておらないのである。惜しいことには、二人の雅人が卯の花城跡を訪れた年月日が従って判らないのである。然し乍ら二流と云う俳人は別な俳諧の各書で散見されておるので、大体、寛政頃から文化の頃に斯道に活躍した人である事が解る。それを根拠に考察すれば多分彼の記事は、文化年代の或年の桜の花時であったと考えてよいと思うのである