長井市中央地区公民館

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 横山八次は明治25年8月14日、歯科医先代八次の次男に生まれた。現東京
歯科大学を卒業して家業を継ぐ、昭和4年4月先代八次死去につき八次を襲名、
長井郵便局長に命ぜられ以降43年間郵政マンとしても活躍。敗戦後は全国特
定局長会会長に推され、特定局制度の存続を勝ち得た功績は大きい。昭和37
年、郵政のノーベル賞と言われている前島賞を授与された。
 此の像は昭和35年全国特定局長有志の建立によるもので、制作は当市出身
彫刻家長沼孝三である。
(昭和62年設置)




 雅外は明治期の川柳の名家として知られ五十川の悠哉、荒砥の卜枝とともに
西部の三傑とうたわれた。本名は加藤源四郎といい、天保7年の生まれ、郷土の
川柳の始祖は緑庵(みどりあん)太橘であり、太橘の没後文莠が二世となった
が、早世したので雅外が推されて緑庵三世を継ぎ指導者となった。この碑は明
治26年4月1日、培柳社同人が雅外を顕彰するために建てたもので、書は元老院
議官金井之恭の筆である。
明治29年10月15日の永眠。60歳。
(昭和62年度設置)




 近世期の市日は、小出村が2日・7日・12日、宮村が17日・22日・27日であり、
明治以降は、小出が2・7の日に、宮では、5・10の日に市が開かれた。
 小出は粡町通りに、宮は大町通りに市がたった。
 明治10年頃の粡町の市日には、近村より20人から60人の人が、さまざまな品
物を持ち運んで売買していた。
 その中心に市神の石碑が建てられた。
小出の市神は(高さ97cm・巾70cm)文政5年(1822)8月に造立されたもので、
文久元年に竹田清五郎氏が石柵を寄附している。
 以前は粡町東側から神明通りに入る一角に所在したが、現在は当地に移された。
 又4月29日〜5月15日まで領内の小出の馬市も開かれた。
 商業の町としては、その発展の過程の歴史であり、わたし達の大事に保存すべ
き足跡である。
(昭和59年設置 薬師寺境内)


 川崎家系図
 
 涼香―荷笠―水山(亀峰)―蘆洲

 涼香は市郎右衛門といい、綿・織物の豪商川崎家の中興初代といわれ、家運
を盛り上げた人である。美濃派の俳人田中五竹坊と交わり、当地方俳人の先駆
者である。安政7年7月没。

 つつがなく顔見せたりな菊の宵

 荷笠は涼花の長男で董胤・次郎右衛門という。美濃派の俳人安田以哉坊と意
気投合し、自邸「閑涼亭」に迎えて、多くの郷土俳人がその教えを受けた。
小出俳壇の宗匠であり、「月の首途(かどで)」などの句集を出版。寛政7年没。

 草の実のこぼれて萌る小春かな

 水山は荷笠の長男で、次郎右衛門という。若い時に江戸に登り、沼田東江に
ついて儒学書道を学び、帰郷してから寺子屋を開いて子弟の教育にあたった。
書家として評価が高く亀峰の号で知られている。文化11年没。
 墓碑は右から左に向かって涼香・荷笠・水山・蘆洲の順にならび、川崎一家
はこの外に玄子を始め数多くの俳人が生まれている 




 佐藤応次郎は明治14年10月23日、現長井市本町二丁目佐藤清次の長男に
生まれた。資性俊秀、エリートコースを進んで明治40年7月、東大工学部
土木科を卒業、直ちに南満州鉄道株式会社に入社。
 幾多の業績をあげ大正9年鉄道事情視察のため欧米に出張。帰朝後鉄道
次長に昇進。昭和14年遂に満鉄副総裁に就任。技術畑出身として空前のこ
と。昭和19年3月任期満了退社。勲二等瑞宝章授与。
 昭和26年4月28日東京自宅で死去。71歳。
(昭和62年度設置 平成18年度市により再設置)




 太橘(たいきつ)は小出の産、幕末俳壇の老大家として郷土俳諧の全盛期
をリードした。
文化文政にかけて約10年間諸国を俳諧師として行脚した。その途中江戸の
大会で「一声で夏になりけりほととぎす」の句をよんで、その名を遠近に知ら
れたという。
 嘉永2年10月72歳で没した。八九は72のこと。日の句は

 名月や雲がいづれば雲を照る

(昭和58年度設置 平成17年度修復再設置 薬師寺境内)