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市民の目が注がれていますよ…「病院&図書館」論戦がスタート、6月定例会が7日開会へ!!??

  • 市民の目が注がれていますよ…「病院&図書館」論戦がスタート、6月定例会が7日開会へ!!??

 

 上田(東一)市政が抱える懸案である総合花巻病院の経営不安や迷走を続ける新図書館の行方などを焦点とした花巻市議会(定数、議長を含めて26人)6月定例会が7日に開会、25日までの19日間の会期が決まった。一般質問は10日、13日、14日の3日間で全部で15人が質問に立つ。

 

 「病院&図書館」問題を取り上げるのは5人だが、議長を除く最大会派の「明和会」(8人)や無会派の公明党(2人)、無所属(1人、病欠)の中で、この懸案に触れる議員はひとりもいない。毎度のことではあるが、お互いに監視し合うという「二元代表制」を放棄した“自殺行為”は目をおおうばかりである。一方、今議会には新図書館の立地場所を選定するための手法を外部に委託して決めるという、まるで“目眩(めくら)まし”みたいな予算案(約1,000万円)が上程される見込みである。当局と議会という「車の両輪」がともにその自浄力さえ失ってしまったかのように見える。そこに住まわされる住民の、これ以上の不幸はない。

 

 こうした“くびき”から抜け出す方法のひとつに地方自治法が定める「リコール」制度(解職請求権)がある。地方自治体の首長および議員などに対して、有権者の3分の1以上の署名で解職を請求をできる制度で、解職請求が成立するとそれにかかわる住民投票が行われ、過半数以上の賛成があれば解職が成立する。

 

 なお、今議会からYouTubeチャンネルによる視聴も可能になった。懸案事項の双方かそのどちらかを質疑する議員はこの日、HP上に公表された質問通告一覧によると、以下の通り(敬称略)

 

 

 

▽10日(月)~伊藤盛幸(緑の風)

▽13日(木)~阿部一男(社民クラブ)、照井明子(共産党花巻市議団)、羽山るみ子(はなまき市民クラブ)

▽14日(金)~鹿討康弘(緑の風)

 

 

(写真は授業の一環として議会傍聴に訪れた中学生。熱心にメモを取りながら一般質問の質疑に聞き入っていた=インターネット上に公開の写真から)

 

 

 

《追記》~前代未聞の予算計上…統治者能力の崩壊!!??

 

 花巻市議会3月定例会初日の7日、市側は図書館整備事業費として、10,468千円の予算案を計上した。新図書館の建設候補地の選定に係る意見集約などの運営に要する経費で、いわゆる「公募プロポーザル」方式で外部の第三者(ファシリテーター)に意見集約の手法を委託するという内容。「駅前か病院跡地か」という立地論争の中、市側は「中立性を担保するため」と力説するが、市民の間には逆に「中立性を装うため」と警戒の声も多い。

 

 そもそも、駅前立地を第一候補にしたのは市側ではなかったのか。市民が納得するような合理的な立地理由があったはずだが、何か公にはできない事情でもあるのか。市民の疑念は深まるばかりである。 ”迷走”から”脱線”へ。新図書館問題はついに、羅針盤を失った難破船になりつつある。「百年の大計」とも言われる文化の殿堂の前途に早くも暗雲が立ち込めている。議会側の賛否の行方も今後の市政運営を占う重要なポイントになりそうである。

芸術や文化による地域の再生は可能か…但馬からのメッセージと「賢治精神」!!??

  • 芸術や文化による地域の再生は可能か…但馬からのメッセージと「賢治精神」!!??

 

 表題のキャッチコピーに魅(ひ)かれて、『但馬(たじま)日記―演劇は町を変えたか』(岩波書店)というタイトルの本を取り寄せた。著者は宮沢賢治への造詣(ぞうけい)も深い劇作家で演出家の平田オリザさんである。ちなみに「オリザ」とは賢治の代表作『グスコーブドリの伝記』に出てくる言葉で、ラテン語で「稲」を意味するという。さて、東京で生まれ育ったオリザさんは5年前、「コウノトリの郷」で知られる兵庫県北の小さな町・豊岡市(旧但馬国)に移住した。本書は「演劇」による町おこしに立ち上がったまさに、たわわに実る稲穂さながらの奮戦記である。

 

 「兵庫県立芸術文化観光専門職大学」―。こんな長ったらしい名前の大学が2021年4月、豊岡市に開学した。芸術文化と観光をコラボした全国初のこの4年制大学の初代学長に就任したのがオリザさんである。国際アートセンターの開設、市内小中学校へのコミュニケーション教育の導入、旧役場庁舎を改築した河畔劇場の開業、コロナ禍の中で開催された豊岡演劇祭…。開学に先立って着々と地固めをしてきたオリザさんは思わぬ“逆風”に見舞われた。開学の2か月後、町を二分した市長選挙で「演劇のまちなんかいらない」と主張した新人候補が僅差で勝利したのである。逆にこのことが“全身演劇人”のこの人を奮い立たせたみたいだった。

 

 2年前の1月、市内の観光スポット「玄武洞」を舞台とした『十五少年・少女漂流記』と題する演目が河畔劇場で披露された。オリザさん自身が手掛けた脚本で、「たじま児童劇団」の旗揚げ公演だった。子どもたちの楽しそうな演技を思い浮かべていた私は突然、幼少期の記憶に一気に引き戻された。先の大戦の敗戦直後、空襲によって廃墟と化した花巻のまちに「花巻賢治子供の会」という児童劇団がうぶ声を上げた。賢治の教え子である照井謹二郎さんと妻の登久子さん(ともに故人)は賢治童話を劇にして、戦後の混乱に巻き込まれた子どもたちを励まそうとした。焼野原の中で焼失を免れた馬小屋がけいこ場だった。

 

 当時、東京から疎開した詩人で彫刻家の高村光太郎が郊外の山荘で独居生活を続けていた。照井夫妻は第1作目の『雪わたり』を携え、親類や近所の子どもたち十数人を寄せ集めた“にわか劇団”を引き連れて、慰問に出かけた。「(分校の)校長さんも先生方も部落の子供達も大工さんも製板さんも通りがかりの村の人達もみんな温かい気持に満たされて、うれしさうに見えました。現世では数へるほどしか数の少い幸福をつくり出すお仕事は何といふいいものでせう」―。光太郎からこんな感謝の手紙が届いた。会の命名はこの大芸術家からのプレゼントだった。

 

 「科学だけでは冷たすぎる。宗教だけでは熱すぎる。その中間に宮沢賢治は芸術を置いたのではないか」。オリザさんは劇作家、井上ひさしのこの言葉を引用しながら、こう書いている。「賢治の思いが、100年の時を経たいまよみがえる。熱すぎない、冷たすぎない、その中間に芸術や文化を置いたまちづくりが求められている」―。そういえば、オリザさんは『銀河鉄道の夜』の海外公演でも知られる“賢治通”である。最近では「演劇のまち」を訪れる海外からのインバウンド(観光客)も増えつつある。さらに、全都道府県や海外からも人材が集まる異色の大学としても注目が高まっている。

 

 「駅前か病院跡地か」―。その一方で、賢治が「イーハトーブ」(夢の国=理想郷)と名づけた当地はいま、新図書館の建設場所をめぐる“立地”論争に明け暮れている。そんな迷走劇を横目にしながら、私の関心事はもっぱら、病院跡地にその雄姿を見せるであろう「まるごと賢治」図書館の構想を思索することである。「ここ豊岡に世界の風を吹かせて、その風で小さな風穴を開けるのだ」―。オリザさんは本書をこんな言葉で結んでいる。瞬間、賢治のあの歌が唱和した。そう、『風の又三郎』に登場する風たちの主題歌である。

 

 

 「どっどど どどうど どどうど どどう/青いくるみも吹きとばせ/すっぱいかりんもふきとばせ/どっどど どどうど どどうど どどう」―。賢治がこよなく愛した霊峰・早池峰…生者に舞い戻った”賢治”がいままた、産土(うぶすな)のこの地に降臨し、あっちへこっちへとを闊歩(かっぽ)している。手を後ろ手に組む、ベートーベンを気取ったらしい、あのお馴染みのポーズで…。この天才芸術家は今度は何を企(たくら)んでいることか。

 

 

 

 

(写真は光太郎(2列目右から3人目)と記念撮影におさまる「花巻賢治子供の会」のメンバー。=撮影年月日と場所は不明。インターネット上に公開の写真から)

 

 

 

《追記》~ガザの悲劇と「賢治精神」

 

 「子どもたちが殺されていく」―。『週刊金曜日』(5月31日号)の表紙にはパレスチナ・ガザの悲劇を特集する大見出しとともに、息絶えようとしている幼児を抱きかかえる母親らしい女性らの写真が添えられていた。そして「言葉の広場」と題するコーナーまで読み進むと、今度は「今こそ宮沢賢治の想いを受け継ごう」という投稿が目に飛び込んできた。79歳の男性はこの中で、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(『農民芸術概論綱要』)というあの有名な言葉で文章を閉じていた。「賢治精神」が時空を超えて息づいていることになぜか、ホッとさせられた。

足元からも「総スカン」…意見集約の”ファシリテーター”論争!!??

  • 足元からも「総スカン」…意見集約の”ファシリテーター”論争!!??

 

 「よくわかりません。今の説明ですけど、何を言っているか全然わかりません」―。冷静沈着で筋道の通った質疑応答に定評がある伊藤盛幸議員(緑の風)が珍しく、激した口調でこう続けた。「コンサルと言いますか、プロ ポーザルで外部に業務委託するという必要性を全く感じません。優秀な市の職員の皆さんはこれできると思います。そういう意味では、アンケート(調査)は直営でやれますよね。市民から意見をもらうのは単純なものじゃないですか。どっちかにしようっていう集約をしようとしているわけですからね。違いますか」(5月15日開催の「議員説明会」会議録から)

 

 「駅前か病院跡地か」―。新花巻図書館の立地場所について、その意見集約の方法を外部(ファシリテーター=進行役)に委託して決めたいという突然の市側の提案にあちこちから批判が噴出している(5月14日と同23日付当ブログ参照)。議員説明会で口火を切った伊藤議員は市職員の出身で、在職中は「市民参画」のあり方を検討する中心人物として働き、議員になってかは議会が設置した「新花巻図書館整備特別委員会」の委員長を務めた。一方、前日に開かれた「新花巻図書館整備基本計画試案検討会議」では中村萬敬委員が「ギブアップではないか。責任放棄もはなはだしい」と切って捨てる場面があった。中村委員も元市職員で図書館長の経験がある。「職員(公務員)としての使命感」を訴える先輩職員の声が現場にはどう届いたのか。

 

 「業者に意思決定を丸投げするというそのスタ ンスは私はどうかと感じる」―。3年前に「試案検討会議」が発足して以来、委員を務めている花巻商工会議所副会頭で、公益財団法人「花巻国際交流協会」の佐々木史昭理事長は一貫して、駅前立地を主導してきたひとりである。その“駅前”論者が今回の外部委託に愛想が尽きたかのように、まくしたてた。

 

 「10月の段階で客観的な資料(候補地比較調査)が出てきたのを市民の方々にもうそのまま、ある程度は見やすくしながらも見ていただいた後、(住民)投票するのがいいと思います。もう裏表なく多数決で決めちゃう。もう絶対多数が病院跡地の方がこれだけ多いならしょうがないなとか、なんか納得感が出るのではないかなと。私は究極の民主主義は選挙だと言うように感じまして…。私はもう多数決がいいと思います」(5月14日開催の「試案検討会議」会議録から)―。

 

 佐々木委員の発言を聞きながら、あとは上田東一市長の政治決断しかないなと思った。当初、病院跡地への立地を提唱していたのは他ならない上田市長自身だったからである。トップにだけしか権限行使が認められていない“伝家の宝刀”とは以下の定めである。さて、いつ引き抜くことか。

 

 

 「市長は、市政に係る重要事項について、住民(市内に住所を有する者をいいます。 以下同じ)の意思を市政に反映するため、住民投票を実施することができます。市民、市議会及び市の執行機関は、住民投票の結果を尊重するものとします」、「住民投票の投票権を有する者は、住民のうち年齢満18年以上の者とします」(平成20年3月制定「花巻市まちづくり基本条例」第24条ならびに第25条=住民投票)

 

 

 

 

 

(写真は令和3年4月26日に開催された第1回試案検討会議。夢の図書館を目指して、スタートしたはずだったが…=花巻市大通りのなはんプラザで)

 

 

 

「中立的なファシリテーター」という怪…迷走が極まる新図書館の行方!!??

  • 「中立的なファシリテーター」という怪…迷走が極まる新図書館の行方!!??

 

 「意見集約が困難な中、その集約の方法について、外部の中立的なファシリテーターの判断を仰ぎたい」―。駅前か病院跡地かの立地問題に揺れる新花巻図書館を巡って、市側はまるで統治者能力をかなぐり捨てたような暴挙に出た(5月14日付当ブログ参照)。様々な行政課題について、市民の多様な意見を集約して合意形成を目指すというのが行政運営の原則である。ところが、今回の「公募プロポーザル(企画提案)」方式の採用はその原則自体を放棄し、肝心の合意形成を第三者に丸投げしたに等しい。

 

 市側の説明によると、市議会6月定例会(6月7日開会)に約1,000万円の予算を計上し、8月上旬に事業者(ファシリテーター)を選定し、そこで提案された集約手法を使って、10月から3回程度意見集約の場を持ちたいとしている。この際のポイントは集約対象である市民の範囲をどう設定するのかということである。統計学上、民意を正確に担保するためには、全市民を対象にした「全数調査」か無作為抽出による「標本調査」が必要となるが、その点も明らかにされていない。さらには、ファシリテーターの選定基準や選定方法なども未定のまま「まずは予算措置」という拙速ぶりに驚いてしまう。何をそんなに急ぐのか。

 

 一方、意見集約に当たっては10月中旬をメドに進められている「候補地比較調査」の結果も参考にするとしている。しかし、この業務を受託した「(株)大日本ダイヤコンサルタント」はJR各社の鉄道事業などを一手に請け負う独立行政法人「鉄道建設・運輸施設整備支援機構」(JRTT鉄道・運輸機構=前身は鉄建公団)の有資格業者であり、この比較調査自体の中立・公正性にも疑念が持たれている(1月22日、25日、30日付の当ブログ『「事業費比較」調査の怪』シリーズ参照)。その上でなお、こうした調査データを意見集約の参考資料にするということは、逆にファシリテーターそのものの「中立・公正性」にも疑念を生じさせることになりかねない。まとめ役としてのファシリテーターに最低限、求められるのは「二者択一の罠(わな)」にはまらないことなのである。

 

 「まなび学園周辺」(平成28年の花巻市立地適正化計画)→「候補地を数箇所選定」(平成29年の新花巻図書館整備基本構想)→「JR花巻駅前を第1候補に」(令和4年9月定例市議会)…

 

 立地候補地が当初の「まなび学園周辺」から一転、「JR花巻駅前」へと変わった背景には一体、何があったのか。この辺の経緯をきちんと説明してこなかったことが「意見の乖離(かいり)」の大きな要因であり、いろんな憶測を生むきっかけになっている。市側はいまに至るも「駅前」立地の理由として、「高校生など若い世代」の待望論を“金科玉条”にしている。しかし、今般の「高校生アンケート」(4月16日、5月10日付当ブログ参照)によって、若者世代が駅前に望んでいるのは「図書館」そのものではなく、それに付属するたまり場的な“空間”であることが明らかになったはずである。

 

 それでもなお、市側が「駅前」立地にこだわるのであれば、市民が納得できるような合理的な説明をすべきである。仮にそれができない場合は中立を装うような意見集約は即座に止め、「駅前」の旗印を白紙撤回する以外にこの難局を打開する手立てはあるまい。決断の時である。

 

 

 

 

(写真は花巻城址に隣接する広大な病院跡地。手前の切り立った崖が「濁り堀」跡。前方に見えるのが生涯学習の拠点「まなび学園」=花巻城址に建つ花巻小学校側から)

 

 

 

 

《追記》~私たちの民主主義は「恐るべき無関心」でいても大丈夫なほど、悠長な状況にあるのかどうか(映画監督、相田和弘)

 

 「民主制の解体をもくろむ集団が路上でこれを臆面もなく実行する姿が目立つが、それ以上に警戒を要するのは、統治者たちがコソコソと「低温火傷(やけど)」のように進めている社会の破壊だと、映画監督は言う。市民の無関心と諦念(ていねん)をあてにするこの策略がもっとも嫌がるのは、個々人が「わーわー騒ぐ」ことだと。『熱狂なきファシズム』から」(5月22日付朝日新聞、鷲田清一の「折々のことば」)

 

 

 

 

「失われた10年」…上田市政と凡庸なる悪、そして忖度!!??

  • 「失われた10年」…上田市政と凡庸なる悪、そして忖度!!??

 

 

 最近、「上田市政」と一括(くく)りにすることに抵抗を覚えるようになった。『<悪の凡庸さ>を問い直す』(大月書店)と題する本を読んだせいかもしれない。人心を引き付けるこの魅惑的なキャッチフレーズの生みの親はドイツの哲学者、ハンナ・アーレント。先の大戦でユダヤ人の大量虐殺に関わったナチス親衛隊の高官、アイヒマンが「上からの命令に従っただけだ」と語ったことに関連し、アーレントはこう述べた。「世界最大の悪は、ごく平凡な人間が行う悪です。この現象を、私は”悪の凡庸さ”と名付けました」(『エルサレムのアイヒマン』)

 

 「悪の凡庸(ぼんよう)さ」はアーレントの意図とは別にある種の“免罪符”の装いを保ちつつ、今の世にもひょいと顔を出すことがある。例えば、自殺者まで出した「森友学園」問題で、当時の財務省理財局長は「私は組織の歯車のひとつに過ぎなかった」と自己保身の弁明を繰り返した。果たしてそうなのか。本書を乱暴に一括りするとこうなる。総統・ヒトラーひとりで、ナチスドイツを統括することは可能だったのか、否、実はアイヒマンのような取り巻き連中の確信犯的な“意志”(例えば、出世欲)がナチスという堅固な組織を底支えしたのではないか。単なる「歯車」論では片付けられないのではないか。そして、現代風に言えば「悪の凡庸さ」は「忖度(そんたく)」と表裏一体の関係にあるのではないのか…

 

 「失われた10年」とでも呼びたくなる「上田市政」の失政の数々は”上田東一”という一個人の責任にすべて帰してよいのだろうか。その周辺に現代の「アイヒマン」たちはいないのか…。本書を読みながら、ふと身近な行政の姿がそれに重なった。上田市長は地元の高校を卒業後、東大法学部を出て大手商社の三井物産に就職。その後10年ほど、アメリカの大手企業で法務関係の仕事に従事した後、家業の廃棄物処理会社を継ぐため、2005(平成17)年にふるさと花巻に戻った。市長に就任したのは約9年後の2014(平成26)年で、この空白の期間に行政経験を積んだという話は聞かない。

 

 今年3月、総合花巻病院の経営不安が表面化し、市側が約5億円の財政支援を決定した。実は上田市長が最初に手掛けたのがこの病院の移転・新築事業だった。一方いまなお迷走を続ける、もうひとつの大プロジェクトである新図書館の立地場所の選定を巡っては「中立的なファシリテーター」なる得体の知れない言葉が突然、ひとり歩きを始めている。

 

 金融畑を歩いてきた新市長とはいえ、地方自治の現場は初体験であり、足元の事情にも疎(うと)かったにちがいない。ここに登場するのが「総統の意を体して働く」というアイヒマン的な人物たちである。「他人の内心を推し量り、その意図を汲んで行動する、ある意味で主体的な行為」―という本書の解説を借用すれば、こんな構図が浮かんでくる。

 

 市長の「意を体する」形で用意されたメニューこそが病院や図書館ではなかったのか。補助金行政にどっぷりつかった「市長とその取り巻き」による市政運営はこうして、始まったのではなかったのか。あれから早や10年―。“やらせ要請”が取り沙汰された駅橋上化(東西自由通路)と利権が噂(うわさ)される新図書館建設を含め、「三大プロジェクト」と呼ばれるこれらの事業は一見、”上田案件”とも見えるが、その実は佞臣(ねいしん=和製アイヒマン)から市長への“上納品”(貢物)の色合いが強いのはそのせいである。“パワハラ”疑惑がささやかれる上田市長の個人的な“資質”が後押ししているにせよ、その背景に浮かび上がるのは見事なまでの「忖度」の構図である。そこにはもはや「市民への目線」のひとかけらも存在しない。

 

 アイヒマンを扱ったドキュメンタリー映画「スペシャリストー自覚なき殺戮者」(2000年公開)について、当時の朝日新聞「天声人語」(同年3月5日付)はこう書いている。「服従は、個人にとって常に不本意であるとは限らない。他人の言うなりにやり過ごす日常は、一面で気楽であり、時には甘美ですらある。何も考えないですむし、いっさいの責任から逃れられるようにも思えるから…」

 

 

 

 

 

(写真は旧料亭「まん福」跡地。「ヒルズエリア」と名づけられた跡地には電気やガス、水道はもとより専用トイレや駐車場もない。こんな“無用の長物”(上田失政)の爪痕は市内のあちこちに=花巻市吹張町で)

 

 

<註>~佞臣(ねいしん)とは!?

 

 新渡戸稲造は代表作『武士道』』の中でこう語っている。「おのれの良心を主君の気まぐれや酔狂、思いつきなどの犠牲(いけにえ)にするものに対しては、武士道の評価はきわめて厳しかった。そのような者は『佞臣』すなわち無節操なへつらいをもって、主君の機嫌をとる者、あるいは『寵臣』(ちょうしん)すなわち奴隷のごとき追従の手段を弄して、主君の意を迎えようとする者として軽蔑された」(奈良本辰也・訳解説)

 

 上田市長は初当選した直後の2014年3月定例会で私の質問に対し、尊敬する人物のひとりに新渡戸の名前を挙げていた。