「この公爵別荘の西洋館のモデルが花巻・菊池捍(まもる)邸であった。…特にわき玄関は、通常の西洋館の民家にはないものである。この地方の上級武士や豪商・豪農の家屋は、通常用いるわき(脇)玄関と高貴な身分の客を通す本玄関とが別であったので、菊池邸の場合には、昔からの伝統を、洋風建築であるにも拘(かか)わらず、取り入れている。その菊池邸をモデルとしたため、(宮沢賢治の)『黒ぶだう』の洋館にも『わき玄関』があるのである」―(「賢治童話『黒ぶだう』の西洋館モデルとしての花巻・菊池邸の発見(要約)=「花巻市文化財調査報告書第32集」、花巻市教育委員会編、2006年3月」
長々とした引用になったが、原文中の「赤狐はわき玄関の扉(と)のとこでちょっとマットに足をふいてそれからさっさと段をあがって家の中に入りました」―という部分についての論考で、旧菊池捍邸が『黒ぶだう』のモデルとされるようになった初出の根拠である。ひと言でいうと「まず、菊池邸ありき」…この寓話は賢治が菊池邸を現認したのがきっかけで誕生したという論理立てである。論文の共同執筆者である賢治研究家の米地文夫氏(故人)と花巻市文化財調査委員の木村清且氏は膨大な資料を駆使しながら、モデル説を構築している。たとえば、両氏は北海道型西洋館に「わき玄関」がなかった例として、札幌の洋風邸宅(明治18年ごろの建立)を紹介している(出典は越野武著「北海道における初期洋風建築の研究」、北海道大学図書刊行会1993年)
しかし、その一方で同じ著者は明治5年(6年説も)に竣工した「ガラス邸」と呼ばれる開拓使の官舎(勅奏邸)も例示し、こう記している。「最初は長官滞在中の宿舎などにあてられた最大規模のものである。表玄関、脇玄関を構え、客座敷をそなえた中級武家住宅に他ならない」(越野武著「札幌生活文化史(明治編)」、札幌市教育委員会文化資料室編、1985年)―。モデル説の提唱者とされる両氏がなぜ、こうした事例に言及しなかったのか。
建築主の菊池捍(明治3年=1860年~昭和19年=1944年)は札幌農学校(現北海道大学)に学び、台湾やスマトラ勤務を除く人生の大半を農業技術者として、北海道で暮らした。この間、菊池自らも西洋風の洋館に居住しており、脇玄関つきの構造を熟知していたはずである。だから、余生を送るためのふるさとの家に脇玄関を取り付けたのはけだし、当然の成り行きだったのであろう。大正15(1926)年、待望の菊池捍邸が完成した。同じ年、もう一人の「主役」である賢治は花巻農学校の教職を辞し、農業技術の普及や芸術の啓発を目的とした「羅須地人協会」の設立に奔走(ほんそう)していた時期に当たる。
その賢治は生前、北海道を3回旅行している。1回目は大正2(1913)年、旧制盛岡中学5年の時の修学旅行で、道南地方を中心とした1週間の旅程。2回目は大正12(1923)年7月31日から8月12日まで道内を縦断し、樺太(サハリン)まで足をのばしている。妹トシの追憶を兼ねた樺太行である。この翌年には6泊7日の日程で生徒たちの修学旅行を引率。菊池捍の義兄に当たる北海道帝国大学(当時)の初代総長、佐藤昌介を表敬訪問している。洋風にあこがれ、好奇心が旺盛な賢治がこの旅程の中で、あちこちに林立する洋風建築に目を奪われなかったはずはない。
『黒ぶだう』の執筆時期はこれまで「大正12年」前後と言われてきた。北海道旅行で見聞した事物を賢治の持ち味である想像力を駆使して、一気に書き上げたのがこの掌編ではないのかーというのが私自身の見立てである。活動拠点となった羅須地人協会の建物は窓ガラスをふんだんに使った開放的な作りになっている。ひょっとして、賢治は旅の途次、札幌にあった脇玄関つきのガラス邸を実際に目にしていたのかもしれない。
版画家の「たなかよしかず」さんの作品『黒葡萄』(原作は賢治の「黒ぶだう」、未知谷刊)の発行日はモデル説が一般に流布(るふ)される3年前。ページをめくってびっくりした。現存する旧菊池捍邸と見まごう洋館が目に飛び込んできた。ハイカラで牧歌的な風景こそが北の大地の象徴だったことをこの版画の数々は物語っている。逆に言えば、賢治は菊池邸を見聞する機会がなくても『黒ぶだう』を作品化できたのであり、現にそうであろうというのが私の確信めいた結論である。
あらゆる状況証拠(傍証)を重ねながら、旧菊池捍邸の『黒ぶだう』モデル説を構築しなければならなかった理由が別にあったのではないか…「ミステリー」はますます、深まるばかりである。
(写真は現存する旧菊池捍邸の「脇玄関」。通用門として、家人や親しい人たちが日常的に出入りした。本玄関は普段は使われず、”開かずの玄関”とも呼ばれた=花巻市御田屋町で。敷地外からズーム撮影)
《追記ー1》~チグハグな危機対応、男やもめのため息を聞いてくれ!!??
30日午後、花巻市全域に土砂災害警戒警報や高齢者などに避難を呼びかける「警戒レベル3」が大迫町亀ヶ森、内川目地区に発令されたのに伴い、9月3日に宮野目体育センタ—で予定されていた胃がん検診が翌日に延期されるなど災害対応に大わらわと思いきや…。31日から9月1日にかけて宮沢賢治童話村で開催予定の賢治関連のイベント「イーハトーブフェスティバル2024」は予定通りの開催に向けて準備中とのHP告知(最終判断は当日正午)。北上川の増水を遠目に見ながら、足がヨボヨボな男やもめは「どうしたらええんじゃ」とため息をつくばかり。
《追記ー2》~高齢者避難指示が発令される中、「イーハトーブフェス」は強行。そんな中、雷注意報も!!??
「対象地域では命に危険が及ぶ災害がいつ発生してもおかしくない非常に危険な状況となっています」―。31日から9月1日にかけて開催される「イーハトーブフェスティバル2024」は初日のこの日午後3時、予定通りにオープンした。ちょうど同じ時刻、高齢者などへの避難を指示する緊急メールが届いた。市内3地域が指定され、その中には「フェス」が始まった宮沢賢治童話村に隣接する「矢沢地区」も含まれていた。
さらに、気象庁は今月28日から当市全域に雷注意報を発令し、とくに野外でのイベントなどへの注意を喚起してきた。今年春には宮崎市内で雷注意報を知らずにサッカ―の練習試合中、落雷で部員が救急搬送される事故があった。大雨警報(土砂災害)が発令される中での今回の雷注意報。大会関係者の危機意識の欠如がさらけ出された形だ。こんな災害最前線で「フェスにどうぞ」と呼びかけるこの倒錯した神経が理解できない。入場無料というパフォーマンスもその魂胆はミエミエ。
そう言えば、この作法は「金集め」には手段を選ばないという上田流”錬金術”(8月17日付当ブログ参照)と見事なまでに通底している。これが「イーハトーブ花巻」のトップ(上田東一市長)の姿である。この人って、兵庫県の知事のあの人とそっくり。本当に往生際が悪いなぁ…