HOME > 記事一覧

「旧菊池捍」邸と『黒ぶだう』モデル説をめぐるミステリ―(その3)…「わき(脇)玄関」というナゾ解き!!??

  • 「旧菊池捍」邸と『黒ぶだう』モデル説をめぐるミステリ―(その3)…「わき(脇)玄関」というナゾ解き!!??

 

 「この公爵別荘の西洋館のモデルが花巻・菊池捍(まもる)邸であった。…特にわき玄関は、通常の西洋館の民家にはないものである。この地方の上級武士や豪商・豪農の家屋は、通常用いるわき(脇)玄関と高貴な身分の客を通す本玄関とが別であったので、菊池邸の場合には、昔からの伝統を、洋風建築であるにも拘(かか)わらず、取り入れている。その菊池邸をモデルとしたため、(宮沢賢治の)『黒ぶだう』の洋館にも『わき玄関』があるのである」―(「賢治童話『黒ぶだう』の西洋館モデルとしての花巻・菊池邸の発見(要約)=「花巻市文化財調査報告書第32集」、花巻市教育委員会編、2006年3月」

 

 長々とした引用になったが、原文中の「赤狐はわき玄関の扉(と)のとこでちょっとマットに足をふいてそれからさっさと段をあがって家の中に入りました」―という部分についての論考で、旧菊池捍邸が『黒ぶだう』のモデルとされるようになった初出の根拠である。ひと言でいうと「まず、菊池邸ありき」…この寓話は賢治が菊池邸を現認したのがきっかけで誕生したという論理立てである。論文の共同執筆者である賢治研究家の米地文夫氏(故人)と花巻市文化財調査委員の木村清且氏は膨大な資料を駆使しながら、モデル説を構築している。たとえば、両氏は北海道型西洋館に「わき玄関」がなかった例として、札幌の洋風邸宅(明治18年ごろの建立)を紹介している(出典は越野武著「北海道における初期洋風建築の研究」、北海道大学図書刊行会1993年)

 

 しかし、その一方で同じ著者は明治5年(6年説も)に竣工した「ガラス邸」と呼ばれる開拓使の官舎(勅奏邸)も例示し、こう記している。「最初は長官滞在中の宿舎などにあてられた最大規模のものである。表玄関、脇玄関を構え、客座敷をそなえた中級武家住宅に他ならない」(越野武著「札幌生活文化史(明治編)」、札幌市教育委員会文化資料室編、1985年)―。モデル説の提唱者とされる両氏がなぜ、こうした事例に言及しなかったのか。

 

 建築主の菊池捍(明治3年=1860年~昭和19年=1944年)は札幌農学校(現北海道大学)に学び、台湾やスマトラ勤務を除く人生の大半を農業技術者として、北海道で暮らした。この間、菊池自らも西洋風の洋館に居住しており、脇玄関つきの構造を熟知していたはずである。だから、余生を送るためのふるさとの家に脇玄関を取り付けたのはけだし、当然の成り行きだったのであろう。大正15(1926)年、待望の菊池捍邸が完成した。同じ年、もう一人の「主役」である賢治は花巻農学校の教職を辞し、農業技術の普及や芸術の啓発を目的とした「羅須地人協会」の設立に奔走(ほんそう)していた時期に当たる。

 

 その賢治は生前、北海道を3回旅行している。1回目は大正2(1913)年、旧制盛岡中学5年の時の修学旅行で、道南地方を中心とした1週間の旅程。2回目は大正12(1923)年7月31日から8月12日まで道内を縦断し、樺太(サハリン)まで足をのばしている。妹トシの追憶を兼ねた樺太行である。この翌年には6泊7日の日程で生徒たちの修学旅行を引率。菊池捍の義兄に当たる北海道帝国大学(当時)の初代総長、佐藤昌介を表敬訪問している。洋風にあこがれ、好奇心が旺盛な賢治がこの旅程の中で、あちこちに林立する洋風建築に目を奪われなかったはずはない。

 

 『黒ぶだう』の執筆時期はこれまで「大正12年」前後と言われてきた。北海道旅行で見聞した事物を賢治の持ち味である想像力を駆使して、一気に書き上げたのがこの掌編ではないのかーというのが私自身の見立てである。活動拠点となった羅須地人協会の建物は窓ガラスをふんだんに使った開放的な作りになっている。ひょっとして、賢治は旅の途次、札幌にあった脇玄関つきのガラス邸を実際に目にしていたのかもしれない。

 

 版画家の「たなかよしかず」さんの作品『黒葡萄』(原作は賢治の「黒ぶだう」、未知谷刊)の発行日はモデル説が一般に流布(るふ)される3年前。ページをめくってびっくりした。現存する旧菊池捍邸と見まごう洋館が目に飛び込んできた。ハイカラで牧歌的な風景こそが北の大地の象徴だったことをこの版画の数々は物語っている。逆に言えば、賢治は菊池邸を見聞する機会がなくても『黒ぶだう』を作品化できたのであり、現にそうであろうというのが私の確信めいた結論である。

 

 

 あらゆる状況証拠(傍証)を重ねながら、旧菊池捍邸の『黒ぶだう』モデル説を構築しなければならなかった理由が別にあったのではないか…「ミステリー」はますます、深まるばかりである。

 

 

 

 

 

(写真は現存する旧菊池捍邸の「脇玄関」。通用門として、家人や親しい人たちが日常的に出入りした。本玄関は普段は使われず、”開かずの玄関”とも呼ばれた=花巻市御田屋町で。敷地外からズーム撮影)

 

 

 

 

《追記ー1》~チグハグな危機対応、男やもめのため息を聞いてくれ!!??
 

 

 30日午後、花巻市全域に土砂災害警戒警報や高齢者などに避難を呼びかける「警戒レベル3」が大迫町亀ヶ森、内川目地区に発令されたのに伴い、9月3日に宮野目体育センタ—で予定されていた胃がん検診が翌日に延期されるなど災害対応に大わらわと思いきや…。31日から9月1日にかけて宮沢賢治童話村で開催予定の賢治関連のイベント「イーハトーブフェスティバル2024」は予定通りの開催に向けて準備中とのHP告知(最終判断は当日正午)。北上川の増水を遠目に見ながら、足がヨボヨボな男やもめは「どうしたらええんじゃ」とため息をつくばかり。

 

 

 

《追記ー2》~高齢者避難指示が発令される中、「イーハトーブフェス」は強行。そんな中、雷注意報も!!??

 

 

 「対象地域では命に危険が及ぶ災害がいつ発生してもおかしくない非常に危険な状況となっています」―。31日から9月1日にかけて開催される「イーハトーブフェスティバル2024」は初日のこの日午後3時、予定通りにオープンした。ちょうど同じ時刻、高齢者などへの避難を指示する緊急メールが届いた。市内3地域が指定され、その中には「フェス」が始まった宮沢賢治童話村に隣接する「矢沢地区」も含まれていた。

 

 さらに、気象庁は今月28日から当市全域に雷注意報を発令し、とくに野外でのイベントなどへの注意を喚起してきた。今年春には宮崎市内で雷注意報を知らずにサッカ―の練習試合中、落雷で部員が救急搬送される事故があった。大雨警報(土砂災害)が発令される中での今回の雷注意報。大会関係者の危機意識の欠如がさらけ出された形だ。こんな災害最前線で「フェスにどうぞ」と呼びかけるこの倒錯した神経が理解できない。入場無料というパフォーマンスもその魂胆はミエミエ。

 

 そう言えば、この作法は「金集め」には手段を選ばないという上田流”錬金術”(8月17日付当ブログ参照)と見事なまでに通底している。これが「イーハトーブ花巻」のトップ(上田東一市長)の姿である。この人って、兵庫県の知事のあの人とそっくり。本当に往生際が悪いなぁ…

 

 

「旧菊池捍」邸と『黒ぶだう』モデル説をめぐるミステリ―(その2)…Corresponds to the original(ミステリーを解明するためにはまず、原典に当たれ)!!??

  • 「旧菊池捍」邸と『黒ぶだう』モデル説をめぐるミステリ―(その2)…Corresponds to the original(ミステリーを解明するためにはまず、原典に当たれ)!!??

 

 (旧菊池捍邸の『黒ぶだう』モデル説に疑義を呈した)上田(東一)市長「発言」をずっと、引きずっている(8月17日当ブログ参照)。で、「そんな時は原典に」というわけで、十数年ぶりに宮沢賢治の掌編『黒ぶだう』を手に取ってみた。仔牛(こうし)がキツネに出会い、誘われて無人のベチュラ公爵の別荘に入り込む。二階に上り、テーブルの黒ブドウを食べていると、公爵らが帰宅。キツネは素早く逃げ出すが、仔牛は取り残されてしまう。

 

 広大な牧場の周りで(キタ)キツネがはね回っている。白樺林が続く道の向こうにはしゃれた洋館の二階建が…。北海道勤務が長かったせいか、読後に目に浮かんだのは北の大地に広がるこんな風景だった。ある意味、目に沁みついた記憶である。ところで、仔牛はとがめられるどころか、幸せのシンボルである“黄色いリボン”を巻いてもらう。ほのぼのとしたラストシーンである。

 

 さて、このミステリー劇場での仔牛の運命はいかに…。黒ぶだう牛を食べたことがある人でも案外、この寓話を読んだことのある人は少ないかもしれない。そこで、皆さんと一緒に考えを巡らしてみたいと思う。では、ご一緒に。

 

 

 仔牛が厭(あ)きて頭をぶらぶら振ってゐましたら向ふの丘の上を通りかかった赤狐(あかぎつね)が風のやうに走って来ました。「おい、散歩に出ようぢゃないか。僕がこの柵(さく)を持ちあげてゐるから早くくぐっておしまひ。」仔牛は云(は)はれた通りまづ前肢(まえあし)を折って生え出したばかりの角を大事にくぐしそれから後肢をちゞめて首尾よく柵を抜けました。二人は林の方へ行きました。
 

 狐が青ぞらを見ては何べんもタンと舌を鳴らしました。そして二人は樺(かば)林の中のベチュラ公爵の別荘の前を通りました。ところが別荘の中はしいんとして煙突からはいつものコルク抜きのやうな煙も出ず鉄の垣(かき)が行儀よくみちに影法師を落してゐるだけで中には誰(たれ)も居ないやうでした。そこで狐がタン、タンと二つ舌を鳴らしてしばらく立ちどまってから云ひました。
 

 「おい、ちょっとはひって見ようぢゃないか。大丈夫なやうだから。」犢(こうし)はこはさうに建物を見ながら云ひました。「あすこの窓に誰かゐるぢゃないの。」「どれ、何だい、びくびくするない。あれは公爵のセロだよ。だまってついておいで。」「こはいなあ、僕は。」「いゝったら、おまへはぐづだねえ。」
 

 赤狐はさっさと中へ入りました。仔牛も仕方なくついて行きました。ひひらぎの植込みの処(ところ)を通るとき狐の子は又青ぞらを見上げてタンと一つ舌を鳴らしました。仔牛はどきっとしました。赤狐はわき玄関の扉(と)のとこでちょっとマットに足をふいてそれからさっさと段をあがって家の中に入りました。仔牛もびくびくしながらその通りしました。
 

 「おい、お前の足はどうしてさうがたがた鳴るんだい。」赤狐は振り返って顔をしかめて仔牛をおどしました。仔牛ははっとして頸(くび)をちゞめながら、なあに僕は一向家の中へなんど入りたくないんだが、と思ひました。「この室(へや)へはひって見よう。おい。誰か居たら遁(に)げ出すんだよ。」赤狐は身構へしながら扉をあけました。
 

 「何だい。こゝは書物ばかりだい。面白くないや。」狐は扉をしめながら云ひました。支那(しな)の地理のことを書いた本なら見たいなあと仔牛は思ひましたがもう狐がさっさと廊下を行くもんですから仕方なく又ついて行きました。「どうしておまへの足はさうがたがた鳴るんだい。第一やかましいや。僕のやうにそっとあるけないのかい。」狐が又次の室(へや)をあけようとしてふり向いて云ひました。
 

 仔牛はどうもうまく行かないといふやうに頭をふりながらまたどこか、なあに僕は人の家の中なんぞ入りたくないんだ、と思ひました。「何だい、この室はきものばかりだい。見っともないや。」赤狐(あかぎつね)は扉(と)をしめて云ひました。僕はあのいつか公爵の子供が着て居た赤い上着なら見たいなあと仔牛は思ひましたけれどももう狐がぐんぐん向ふへ行くもんですから仕方なくついて行きました。
 

 狐はだまって今度は真鍮(しんちゅう)のてすりのついた立派なはしごをのぼりはじめました。どうして狐さんはあゝうまくのぼるんだらうと仔牛は思ひました。「やかましいねえ、お前の足ったら、何て無器用なんだらう。」狐はこはい眼をして指で仔牛をおどしました。
 

 はしご段をのぼりましたら一つの室があけはなしてありました。日が一ぱいに射(さ)して絨毯(じゅうたん)の花のもやうが燃えるやうに見えました。てかてかした円卓(まるテーブル)の上にまっ白な皿(さら)があってその上に立派な二房の黒ぶだうが置いてありました。冷たさうな影法師までちゃんと添へてあったのです。「さあ、喰べよう。」狐はそれを取ってちょっと嗅(か)いで検査するやうにしながら云ひました。
 

 「おい、君もやり給(たま)へ。蜂蜜(はちみつ)の匂(にほひ)もするから。」狐は一つぶべろりとなめてつゆばかり吸って皮と肉とさねは一しょに絨鍛の上にはきだしました。「そばの花の匂もするよ。お食べ。」狐は二つぶ目のきょろきょろした青い肉を吐き出して云ひました。「いゝだらうか。」僕はたべる筈(はず)がないんだがと仔牛は思ひながら一つぶ口でとりました。
 

 「いゝともさ。」狐はプッと五つぶめの肉を吐き出しながら云ひました。仔牛はコツコツコツコツと葡萄(ぶだう)のたねをかみ砕いてゐました。「うまいだらう。」狐はもう半ぶんばかり食ってゐました。「うん、大へん、おいしいよ。」仔牛がコツコツ鳴らしながら答へました。そのとき下の方で「ではあれはやっぱりあのまんまにして置きませう。」といふ声とステッキのカチッと鳴る音がして誰(たれ)か二三人はしご段をのぼって来るやうでした。
 

 狐はちょっと眼を円くしてつっ立って音を聞いてゐましたがいきなり残りの葡萄の房を一ぺんにべろりとなめてそれから一つくるっとまはってバルコンへ飛び出しひらっと外へ下りてしまひました。仔牛はあわてて室の出口の方へ来ました。「おや、牛の子が来てるよ。迷って来たんだね。」せいの高い鼻眼鏡(はなめがね)の公爵が段をあがって来て云ひました。
 

 「おや、誰か葡萄なぞ食って床へ種子(たね)をちらしたぞ。」泊りに来て居た友だちのヘルバ伯爵が上着のかくしに手をつっこんで云ひました。「この牛の仔にリボン結んでやるわ。」伯爵の二番目の女の子がかくしから黄いろのリボンを出しながら云ひました。

 

(『宮澤賢治全集6』の「黒ぶだう」から=ちくま文庫)

 

 

 

 

 

(写真は共同通信の新聞連載「黒ぶだう」のイラスト=インターネット上に公開の「いっちゃんのイラスト」から)

 

 

 

《追記》~「想像の王国」(第23回=2013年=宮沢賢治賞受賞の富田勲さんの言葉)

 

 「作曲家の冨田勲さんは毎冬、ハワイのマウイ島に残る日本人移民の墓を訪れた。苛酷(かこく)な農場労働を強いられ、故郷への思慕の中で亡くなっていったあまたの人々の痛みを冨田さんは自ら己の心に刻もうとした。煤(すす)けた墓標に手を合わせていると、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』や『よだかの星』がきこえたという。戦時中、自分に想像の王国のありかを教えてくれたのが賢治だった」(8月25日付朝日新聞コラム「日曜に想う」から)

 

 

 

 

 

 

 

 


 

「旧菊池捍」邸と『黒ぶだう』モデル説をめぐるミステリ―(その1)…”打ち出の小槌”と宙に浮く文化財行政!!??

  • 「旧菊池捍」邸と『黒ぶだう』モデル説をめぐるミステリ―(その1)…”打ち出の小槌”と宙に浮く文化財行政!!??

 

 「本計画に基づき、文化財の適切な整備や情報収集、将来的な文化財の保存・活用基盤づくり、市民の参画などを中心に事業の展開を図ります」―。当市は今年度から13年度までの8年間を計画期間とする「花巻市文化財保存活用地域計画」(略称「地域計画」)を策定し、将来構想をこう記した。この計画は文化財保護法に基づく制度で、当市は昨年12月時点で、県内で初めて国によって認定された。一方、宮沢賢治の寓話『黒ぶだう』のモデルとされる旧菊池捍邸は昨年8月、国の「登録有形文化財」に登録され、新たな利活用の場としての位置づけが固まった。

 

 「伝統芸能や講演会、落語会、ライブなどを通じて、市民が伝統文化に触れる機会を今後も創出するほか、市民参加型のイベントなどを開催する」―。旧菊池捍邸の利活用について、「地域計画」の中では具体的にこう明記されている。同邸宅の所有権は現在、親族の手から第三者の手に移っているが、農業技術者だった菊池捍(まもる)の生誕150周年を記念した「内覧会とゆかりの人々展」が3年前に盛大に開催された。しかし、その後は見学希望者に開放される程度でいつも閑散とした状態が続いている。市側とのかかわりについて、佐藤勝教育長は「主体はあくまで建物の所有者やその関係者。市はお手伝いをする程度」と冒頭の勢いはない。

 

 その旧菊池捍邸がふるさと納税の“広告塔”として、利用されてきた経緯についてはすでに触れた(7月27日付と8月17日付当ブログ参照)。こんな折しも「ふるさと納税/文化事業救えるか」(8月20日付朝日新聞)という見出しの記事が目に飛び込んできた。人気の美術家、村上隆さんが洛中洛外図や風神図、雷神図などの伝統絵画を扱った「村上隆/もののけ/京都展」(京セラ美術館で開催中)を開催するに当たって、ふるさと納税を活用した資金集めをした結果、個人と企業向けを合わせて総額7億円以上が集まったという内容だった。

 

 「90億6千万円」―。とっさにこの数字が頭をよぎった。当市の令和5年度のふるさと納税の寄付総額である。全国市町村(1735団体)の中で堂々の第13位のランキングにつけている。返礼品の人気商品のひとつ「花巻黒ぶだう牛」も寄付金獲得にそれなりの貢献をしているはずである。であるなら、そのブランド名に付加価値を付けるための“広告塔”とされてきた旧菊池捍邸の「保存活用」(「地域計画」)に対し、幾ばくかの寄付金を向けてもいいではないか。村上流の「文化」再生の手法にウンウンとうなずきながら、そう思ったのだったが…

 

 当の文化財担当トップの佐藤教育長は「そんな形で旧菊池捍邸が利用されているとは知らなかった。いずれにせよ、私たち教育部門は文化財としての価値を評価する立場にあるので…」とボソボソ。気がつくと、上田東一市長がひとりで、“打ち出の小槌”をぶんぶん振り回しているではないか。旧菊池捍邸から歩いて数分の同じ地区内に瓦礫(がれき)の荒野が茫々(ぼうぼう)と広がっている。上田“失政””の負の遺産である花巻城址(旧新興製作所跡地)の無残な姿である。映画館ひとつもない文化が果つる地―賢治が「夢の国」とか「理想郷」と呼んだ「イーハトーブ」のこれがなれの果てである。ベジタリアン(菜食主義者)を自称した賢治のことをふと、思い出した。その名も『ビジテリアン大祭』と題する作品にこんな一節がある。

 

 「あらゆる動物はみな生命を惜(おし)むこと、我々と少しも変りはない、それを一人が生きるために、ほかの動物の命を奪って食べるそれも一日に一つどころではなく百や千のこともある、これを何とも思わないでいるのは全く我々の考が足らないので、よくよく喰(た)べられる方になって考えて見ると、とてもかあいそうでそんなことはできないとこう云う思想なのであります」

 

 

 

 

 

(写真は催しも少なく、閑散とした旧菊池捍邸。右側の突き出た部分が本玄関。まだ残っている「菊池」の表札が往時をしのばせる=花巻市御田屋町で)

 

 

 

これって、官製“詐欺”ではないのか…旧「菊池捍」邸をめぐるダブルスタンダード(二枚舌)…賢治寓話『黒ぶだう』モデル説の“真偽”論争にも波及か!!??

  • これって、官製“詐欺”ではないのか…旧「菊池捍」邸をめぐるダブルスタンダード(二枚舌)…賢治寓話『黒ぶだう』モデル説の“真偽”論争にも波及か!!??

 

 「宮沢賢治の寓話『黒ぶだう』の舞台になったということを仰(おっしゃ)る方もいますが、それが正しいかどうか分かりませんが、文化財としての評価をされたという意味では、市として残したい建物ではあると思います。しかし、残すためにはどうやって維持していくのか、しっかり考えなくてはならない」(令和5年3月定例記者会見)―。上田東一市長のこの答弁を聞きながら、不意打ちを食らったような衝撃を受けた。花巻市が新しいふるさと納税(イーハトーブ花巻応援基金)として、宮沢賢治が作詞・作曲した「星めぐりの歌」にあやかった新商品を売り出すなど、最近、過剰な賢治“利用”が目についたため、舞台裏を調べているうちに、この上田発言にぶち当たった。

 

 当市の中心部・御田屋町の一角に洋館風の瀟洒(しょうしゃ)な2階建ての建物が建っている。農業技術者として名を成した菊池捍(まもる)=1870~1944年)が大正15年に建てた自邸で、文化庁の「国登録有形文化財」の指定を受けている。また、北海道帝国大学の初代総長の佐藤昌介は菊池の義理の兄に当たる。上田市長が上記記者会見で、マンガふるさと偉人『佐藤昌介物語』を作成したことについて説明した際、記者からこんな質問が出た。

 

 「佐藤昌介さんとも関連がある旧菊池捍邸が国の登録有形文化財に登録された。まちの中心部にあり、今後まちづくりのために有効活用が期待される声もあるが、市としての今後の活用方法は」―。冒頭の上田答弁はこの質問には直接答えずに、いきなり『黒ぶだう』との関係に言及した。予防線を張ったのであろうか、いずれにせよ、不可解な問答である。しかし、虚を突かれたのは実は私の方だった。『黒ぶだう』をめぐっては、一部の賢治研究者らの間でさまざまの状況証拠から「その舞台(モデル)は旧菊池捍邸だ」という解釈がなされ、いまではある意味で“定説”になりつつあった。私自身もこのモデル説に納得してきた立場である。

 

 ところが、上田市長がいまになって、この定説に距離を置くような発言をしたことに逆にびっくりしたのである。その根拠はどこにあるのか…。これまでも『黒ぶだう』モデル説については、一部で疑義を呈する声もあったが、市長発言となると重みがちがう。今後、“真偽”論争に発展する可能性があるが、それはこれからの課題とし、今回は別の観点からこの件の問題点を指摘したい。以下の文章をじっくり、読んでいただきたい(再掲、7月24日及び同27日付当ブログ参照)。当市のふるさと納税の案内広告((HPのふるさとチョイス)には以下のように書かれている。

 

 

●「花巻黒ぶだう牛」は、花巻が世界に誇る株式会社エーデルワインが製造するワインのぶどうの搾りかすを飼料として給与しており、さらりとした脂と豊かな風味が特徴です。花巻出身の詩人で童話作家の宮沢賢治の寓話(ぐうわ)『黒ぶだう』で仔牛がぶどうを食べる描写があることから名づけられた、花巻ならではの「ブランド牛です!

 

 寓話『黒ぶだう』は、花巻市御田屋町の旧菊池捍邸が舞台とされ、赤狐に誘われた仔牛が、留守の人間の別荘に入り込み勝手に「黒ぶだう」を食べていたところに住人の公爵一行が帰宅し、逃げ遅れた仔牛は見つかってしまいますが、怒られもせず、逆に黄色いリボンを結んでもらうというものです。物語の中で、赤狐はぶだうの汁ばかり吸って他は全部吐き出しますが、仔牛は「うん、大へんおいしいよ」と種まで噛み砕いて食べてしまいます。賢治は、当時すでに、ぶどうの搾りかす(皮と種)が家畜の餌として使えることに気づいていたのかもしれません●

 

 

 旧「菊池捍」邸の『黒ぶだう』モデル説に疑義を呈す一方で、案内広告ではその関係性をこれ以上ないほどに強調するという“二枚舌”に驚いてしまう。寡聞にして、これ以上の“詐欺手法”を知らない。“虚偽“広告、いや「偽(にせ)ブランド」とさえ言える。花巻市は令和5年度のふるさと納税ランキングで、全国市町村(1735団体)の中で13位につけ、寄付総額は前年比約2倍の90億6千万円に達した。しかし、その背後には『黒ぶだう』モデル説に垣間見るような“賢治利権”の黒い闇がうごめいているような気がしてならない。

 

 

 

 

(写真は返礼品の人気商品のひとつ、「サーロインステーキ」用の黒ぶだう牛=花巻市のふるさとチョイスのカタログから)

<「平和」メッセージの発信拠点から、「イーハトーブ」の建国に向けて>~IHATOV・LIBRARY(「まるごと賢治」図書館)の実現を目指して(その5=完)~この日は79回目の「敗戦の日」、そして、あの女は!!??

  • <「平和」メッセージの発信拠点から、「イーハトーブ」の建国に向けて>~IHATOV・LIBRARY(「まるごと賢治」図書館)の実現を目指して(その5=完)~この日は79回目の「敗戦の日」、そして、あの女は!!??

 

 東日本大震災の際、米国の首都・ワシントン大聖堂で開かれた「日本のための祈り」やロンドン・ウエストミンスター寺院での犠牲者追悼会などで、英訳された「雨ニモマケズ」が朗読された。また、この詩に背中を押されるようにして、世界中からボランティアが被災地へ駆けつけた。そしてまだ、復旧のメドさえついていない能登半島地震の被災地でもこの詩に詠われた「行ッテ」精神が被災者を勇気づけている。そして今度は、追い打ちをかけるようにして宮崎・日向灘地震。さらに、海の向こうでは…

 

 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(『農民芸術概論綱要』)―。ウクライナやガザ…世界全体の悲しみの地にこのメッセージを届けたい。「平和」を希求する賢治の心の叫びを積み込んだ「銀河鉄道」…新図書館こそがその始発駅にふさわしいと思う。この列車が銀河宇宙の旅に出て、今年でちょうど100年を迎える。

 

 「豊かな自然/安らぎと賑わい/みんなでつなぐ/イーハトーブ花巻」―。当市は「将来都市像」をこう描いている。いうまでもなく、「イーハトーブ」とは賢治が未来に思いを馳せた「夢の国」や「理想郷」を意味する言葉である。一方、図書館学の父とも呼ばれるインド人学者のランガナータンは「図書館は成長する有機体である」と述べている。そして、賢治もまた、『春と修羅』の序をこう書きだしている。「わたくしといふ現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です(あらゆる透明な幽霊の複合体)」―。ことほど左様に、「まるごと賢治」図書館(IHATOV・LIBRARY)が目指す”夢の図書館”は世代を継いで成長し続ける永遠の有機体である。自らを「幽霊の複合体」と称してはばからない、この天才芸術家のその”お化け”の正体を暴いてみたいというのが偽らざる気持ちである。

 

 旧病院の中庭に「Fantasia of Beethoven」と名づけられた花壇があった。設計者の賢治は「おれはそこへ花でBeethovenのFantasyを描くこともできる」(『花壇設計』)と大見えを切って、こう豪語した。「だめだだめだ。これではどこにも音楽がない。おれの考へてゐるのは対称はとりながらごく不規則なモザイクにしてその境を一尺のみちに煉瓦(れんが)をジグザグに埋めてそこへまっ白な石灰をつめこむ。日がまはるたびに煉瓦のジグザグな影も青く移る。あとは石炭からと鋸屑(おがくず)で花がなくてもひとつの模様をこさえこむ。それなのだ」
 

 「賢治とは一体、何者なのか」ー。いざ、「イーハトーブ」の建国に向けて…

 

 

 

《終わりに》

 

 私は“賢治教”の信者でも、いわゆる「オタク」でも、ましてや当然研究者なんかではない。かといって、賢治嫌いでも食わず嫌いでもない。『注文の多い料理店』にうぅ~と唸ったり、『風の又三郎』と一緒に風に飛ばされたり、『銀河鉄道の夜』の無辺空間に腰を抜かしたりする、普通の賢治好きである。それがどうして、「IHATOV・LIBRARY」(「まるごと賢治」図書館)などという大風呂を広げたかというと…。ひと言でいってしまえば「もったいない」からである。

 

 現役市議時代、視察先の自治体関係者から「御市には賢治さんがいらっしゃるから、まちづくりも賢治さん頼みでOK。うらやましい限りです」としょっちゅう言われたことを思い出す。ところがである。「賢治まちづくり課」とは名ばかりで、最近では賢治を”食い物”にして、ふるさと納税を肥え太らせようとする“錬金術”が目に余るようになった。「賢治最中」や「よだかの星」、「山猫軒」…。この程度のお茶受けならまだ許せるが、(前掲『花壇工作』の賢治ではないが)新手の“詐欺手法”にこの「おれ」もついに切れたのである。で、どうせなら、ガブッとまるごと「賢治」にかぶりついてみたいという欲求が押さえきれなくなったという次第である。だから、「まるごと賢治」図書館…

 

 「あなたにとって、賢治さんとは何ですか」と問われた際、私は「希代まれなる詐欺師ではないか」と答えることにしている。そんじょそこらの寸借詐欺師とはちがって、この大詐欺師に“騙(だま)された”と思うと、得も言われぬ清々しい“充実感”に満たされるからである。騙されたいという欲求はもしかしたら、“賢治教”のもうひとつの亜種なのかもしれないなぁ。

 

 

 

 

(写真はかつて、総合花巻病院の中庭にあった賢治の花壇「Fantasia of Beethoven」。この旧病院跡地に新図書館が完成した暁にはその入り口付近にぜひ、復元してほしいと願う=インターネット上に公開の写真から)

 

 

 

 

《追記ー1》~冷酷な侵略者も、血も涙もない……暴君も、記憶を、記録を、そしてそれらを歌にして時に刻む言葉を、恐れている(師岡カリーマ・エルサムニー)

 

 「パレスチナ・ガザ地区については、その現況と歴史的経緯を伝えて民の保護を訴える声に、沈黙を強いる圧力が多方向からかかる。だが『ガザの蹂躙(じゅうりん)が許される世界は、誰にとっても安全ではない世界』だと、文筆家は言う。だから私たちもあらゆる場所から声をあげねばならないと。論考「『圧政者が恐れるもの』」―「地平」創刊号)から」(8月12日付朝日新聞 鷲田清一「折々のことば」)

 

 

 

《追記―2》~大雨警報発令中に花火大会!!??

 

 「今後強い雨による急な増水や土砂災害が発生するおそれが高いため、河川や用水路、山や崖など急な斜面には近づかないようにしてください」―。花巻市は13日午後2時2分、大雨警報(土砂災害)の発表に伴い、災害警戒本部を接したが、一方で北上川河畔での花火大会(石鳥谷夢まつり)を予定通りに行うとHPで告知した。雨天の場合は15日に延期するとしながらでの強行である。

 

 「午後3時半現在、会場となる大正橋公園内は非常にぬかるんでおります。お越しの際は長靴や雨具等をご準備のうえ、ご観覧いただきますようお願いいたします」という危機管理の無視に住民も戸惑い。昨年も同じようなチグハグ対応があったが、警戒を呼びかけながらの花火観戦―この倒錯した行政姿勢に今年も仰天させられた。ここにもトップ(上田東一市長)の決断力の無さ加減が透けて見える。機能不全、ここに極まれり!?

 

 

 

《追記ー3》~79回目の「敗戦の日」に

 

 この日(8月15日)、母方のいとこ(従兄)の訃報を知らせる葉書が届いた。92歳の大往生で、命日が妻と同じ「7月29日」だった。最近、こんな不思議なめぐり合わせが多い。2年前(2022年8月15付)の当ブログ「追憶~父を訪ねて」を再読する。父は敗戦4か月後、シベリアの捕虜収容所で栄養失調死した。そういえば、賢治と同じ37歳の若さだった。これらの逝(ゆ)きし人たちとすべての戦争犠牲者、いまも戦火の犠牲になっている海の向こうの尊い命に手を合わせ、黙祷を捧げた。この日、ガザ地区での死者は4万人を超えた。

 

 一方、「弔いの日」のこの日、赤ベンツ不倫のエッフェル女子こと、広瀬めぐみ参院議員が秘書給与を詐取した責任を取って、辞職した。この人を担ぎ出した”共犯者”たる花巻市の上田市長やその提灯持ちの議員会派「明和会」の面々はどんな気持ちでこの日と向き合ったことか。思えば、1年前の花巻まつりの際、市長と一緒に山車の先導役を務めたいたのもこのご仁だった。大方の人には8月1日付当ブログのコメント欄の写真をきちんと、記憶に止めておいて欲しい。