「コウノトリ『も』住めるまちを創る」―。2001年から5期20年間、兵庫県北の豊岡市長を務めた中貝宗治さん(69)さんは“小さな世界都市”を標榜して、まちづくりを成功に導いた地方政治家として知られる。その政治哲学の原点は『が』ではなく、この『も』の発見にあるとして、自著『なぜ豊岡は世界に注目されるのか』(集英社新書)の中にこう書いている。
「かつてコウノトリは田んぼに植えたばかりの苗を踏み荒らす『害鳥』でした。そのコウノトリは、今や『豊かな環境のシンボル』です。この間、コウノトリ自身は何も変わっていません。変わったのは、人間の方です。人間が価値観を変えたのにすぎません。…そのような豊かな自然は、人間にとって『も』素晴らしい自然であるに違いありません」―。特別天然記念物に指定されているコウノトリは53年前、当市豊岡で確認されたのを最後に姿を消した。乱獲や農薬使用によって、カエルやドジョウ、フナやナマズなどの餌が減ったのが原因だった。「コウノトリ共生推進課」を設置し人工飼育を進めた結果、平成17(2005)年、絶滅から34年ぶりに世界で初めての野外放鳥に成功した。
中貝さんは人口減少社会を生き抜く地方都市の方向性について、「地方に暮らす突き抜けた価値の創造、生きる場としての突き抜けた魅力の創造。そのキーワードは『深さと広がり』。旗印は小さな世界都市です」(同書)と語っている。無農薬や減農薬農業を推進した結果、餌になる小生物が増え、豊岡の空にはいま300羽以上のコウノトリが舞うようになった。さらに、「コウノトリ育むお米」と名づけられた銘柄米は遠く海外9カ国にまで輸出される人気ブランドに。一方、この鳥はヨーロッパでは赤ちゃんや幸せを運ぶと信じられている。なるほど、子育て支援にもつながるというわけか。やるなぁ。
“コウノトリ”作戦が「突き抜けた価値の創造」(深さ)を地で行った成功例だとすれば、もうひとつの「突き抜けた魅力の創造」(広がり)はひょんなきっかけから生まれた。「いっそのこと、タダで劇団に貸してはどうか」―。志賀直哉の『城の埼にて』で知られる城崎温泉の近くに収容人員が千人規模の古いホールがあった。このお荷物施設の再利用に思案投げ首していた時、東京出張の機内でふとそう思いついた。2014年4月、日本最大級の滞在型「アーティスト・イン・レジデンス」(城崎国際アートセンター)はこうして、まるで「ひょうたんから駒」のようにして産声を挙げた。中貝さんは国内外から集まったアーティストを“観光大使”に任命した。そこにはこう書かれていた。
「あなたは豊岡に滞在し、温泉を楽しみ、狂言を鑑賞し、お寿司を食べ、浴衣で温泉地を散策されるなど、大いに豊岡の暮らしを楽しまれました。よって、あなたは帰国後も豊岡の良さを人々に伝える責務を負っているものと考えます。豊岡市長は、愛を込めてあなたを豊岡市の観光大使に任命いたします」―。この流れの延長線上に2021年4月、同市に開学したのが「兵庫県立芸術文化観光専門職大学」。5月30日付当ブログで紹介したように、芸術文化と観光をコラボした全国初のこの4年制大学の初代学長に就任したのが、劇作家で演出家の平田オリザさんである。
よだれが出るような「まちづくり」の手腕に引き込まれているうちに私は宮沢賢治にあやかって、「イーハトーブはなまき」を「小さな宇宙都市」(Local&CosmicーCity)と名づけたい欲求にかられた。「深くて広い」時空間を兼ね備えている(賢治の)銀河宇宙こそがそれにピッタリだと思ったからである。だが、「病院&図書館」問題…。その足元に目を向けると「突き抜ける価値と魅力の創造」とはかけ離れた無惨な光景が広がっている。なぜなのだろうか。中貝さんはトップリーダーに求められる姿勢について、以下のように書いている。
「だからこそまちづくりには、自分事となる人が増えるように、対話による『一歩ずつ、一歩ずつ』の“発酵熱”の醸成が不可欠であり、時間と忍耐が必要になります。その時間の経過に耐えられるかどうかが、事の成否を大きく左右します。そしてリーダーは、地域の未来を切り開くためにやる価値があると自ら信じる事柄について、“発酵”が途切れることなく、一歩ずつ、一歩ずつ前に進むように旗を掲げ続けなければならないと私は考えています」(同書)―
「IhatovーLibrary」(まるごと賢治図書館)を実現したいという私の発酵熱は弱まるどころか、ますます高まっていく気配である。一方、市長退任後の中貝さんは一般社団法人「豊岡アートアクション」(TAA)の理事長に就任。演劇的手法を活用しながら、認知症の人たちとのコミュニケーションのあり方を模索している。「深く広く」生きる人生はまだ、道半ばのようである。
(写真は子に餌をやる親鳥=兵庫県豊岡市の県立コウノトリの郷公園で。インターネット上に公開の写真から)
《追記》~沖縄慰霊の日
県民の4人に1人が命を落とした沖縄戦からこの日79年を迎え、各地で犠牲者の霊に祈りが捧げられた。当時、米軍の上陸を知った読谷村の住民はチビチリガマと呼ばれる洞窟(ガマ)に逃れ、約140人のうち83人が火を放つなどして亡くなった。幾度か現地に足を運んだ。近くに住む彫刻家の金城実さんが供養に建てた野仏が並んでいた。その仏たちの姿が脳裏の奥に残っている。
「沖縄学の父」と言われた民俗学者の伊波普猷(いはふゆう)は生前、「汝の立つところを深く掘れ。そこに泉わく」と書き記した。「深く広く」ーは歴史認識においても欠かせないことを改めて、心に刻んだ。