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越中富山を旅する‐其の5

  • 越中富山を旅する‐其の5
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魚津は蜃気楼の町、4万人の規模にしては随分大きな観覧車のある遊園地が海岸べりにある。もう少し行くと「海の駅蜃気楼」というところでお魚を仕入れる。クーラーボックスを持参して来たので、何品かをチョイス。

その後もう少し新潟寄りの入善町のジャズ喫茶「TIME」にてコーヒーを頂く。ここは街でも一等地の角1階にあるというジャズ喫茶にしては珍しい立地条件、窓からも光が入り中の観葉植物やコーヒーの木も生き生きと茂っていた。ホテルでコーヒーを飲まなかったので、今回の旅で最初の珈琲、キリマンジャロを淹れていただく。透き通るような感じは水が美味しいせいだろうか。豆もクリアな感じがした。

そのマスターのお勧めで近くにある「かおり食堂」で飯を食べる。この食堂が表向きも中もおばちゃんも娘さんも見事に昭和テイストがしみ込んでいる。メニューも豊富でしかも安い。私はかなり久しぶりに「カツ丼」、K君は流石に若い。「ラーメンと炒飯」他にもそば、うどん(300円代より)各種定食、この辺では考えられない「焼そば定食」というのもあった。

頼んだものが来るまでの間、テレビの緊急速報が入った。高倉健さんが亡くなったというテロップがテレビの下に流れた。昭和が終わったという言葉が頭に浮かんだが、自分が今いる空間がまさに昭和だし、健さんが「幸せの黄色いハンカチ」でム所から出てきたときに食べたのは「カツ丼とラーメン」だったそうだ。

飯を御馳走になって、別れの時が来た。彼が米沢に来るといつも「この瞬間がくるから厭なんですよ。」ということを私も実感せずにはいられなかった。車に乗るときに握手、高速に乗るときにまた握手。

さて、次はいつ会いに行こうか、いやいつこっちに呼ぼうか。。。。

 

おわり

2014.11.23:mameichi:コメント(0):[そこいら辺を歩く]

越中富山を旅する‐其の4

  • 越中富山を旅する‐其の4

翌日、残念ながら日差しはあったのだが霊峰剣岳を拝むことはできなかった。朝風呂を頂いてから朝食バイキングは素晴らしいの一言。食べたいものが目白押しで朝から一杯やりたくなるものも多数。今度は電車で行くしかないなあと思う。

宿を出て上市町の穴の谷(あなんたん、と読む)霊水に向かう。嘉永四年美濃の国白心法師がこの穴にて三年三ヶ月の修行をしその後諸国から参詣人も多くなったと伝えられる。爾後、この穴での修行僧は数多く、近年では明治30年能登の雲外悟道禅師が三年修行して真の解脱を得た。このころから行者穴ともいう。また、昭和32年には広島の岡本弘真という女行者が訪れ、6年間修行して「この穴の水は入巧徳水だ。病に苦しむ人に呑ませてほしいとのお告げがあった。」と遺言して去った。

穴の谷は砂岩と粘板岩でできた三つの洞窟からなり、第一の洞窟の正面に薬師如来を祀り、その奥の洞窟から清水が年中尽きることなく湧き出ている。この水こそ即ち「穴の谷霊水」なのである。(パンフレットより丸写し。)

駐車料金200円を払うと事務所にペットボトル、或いはポリタンクが売られており、それを購入して800メートルほどの山道を歩く。ポリタンクの人は台車でゴロゴロと霊水まで向かう。その途中のあちこちに観音様が祀られており、神秘的な様相を呈してくる。道が途絶え、右側に階段があり谷への降り口となっている。そこにも多数の観音様が祀られており谷底に旅館のような建物がある。ペットボトルを濯ぎ、左側の薬師如来が祀られている脇のところに龍吐に蛇口が付いておりそこから水を汲んだ。お参りをして帰途に向かう。底の事務所でその水で造った醤油が販売されており、想いとは思ったが土産に3本買い求める。

その後その醤油はあちこちで売られており、しくじったなと思ったが、若干現地の価格が安いようだ。

その後山を下りて、上市の名刹眼目山立山寺(さっかさんりゅうせんじ)に参詣する。建徳元年(1370年)大徹宗令禅師による創建で、上杉謙信北陸攻めの時に破却、その他にも2階の火災を経て何も残されていないという寺だ。ただ山門だけは残り、左甚五郎作とされているようだ。

この後は蜃気楼の町魚津市に向かう。

2014.11.22:mameichi:コメント(0):[そこいら辺を歩く]

越中富山を旅する‐其の3

  • 越中富山を旅する‐其の3

富山には富山地方鉄道という会社があり、市内電車のほかに5路線、約100キロメートルの鉄道線を維持している。元々水力発電が盛んで潤沢に電気を供給できた富山県らしく、全て当初から電気鉄道での開通だったというのが、他県とは随分違うところだ。

山が県の場合、国鉄以外には谷地軌道、高畠鉄道、尾花沢鉄道が蒸気機関での開通、赤湯人車軌道は人力、その後下って三山電気鉄道、庄内電気鉄道が電車での開通であった。

その電気鉄道をもう少し近代化して、今後も使い続け高齢者社会にやさしい乗り物に変えていく取り組みがなされている。富山でも自動車保有率は全国2位(1位は福井県)、山形県も第5位と言う依存度である。恒例化、少子化の波は思っているよりも早く、各都市でも早急な手当てが必要だと思う。

さて、富山と言えばなじみ深いのが越中富山の薬売りだ。私の頃はゴム風船を配りながら配置薬の方がバイクに大きな行李を付けて各家庭を回っていたものだ。その中の一つ、廣貫堂の資料館を訪れた。

そこでは栄養ドリンクを一本いただき、展示物を拝見する。江戸城である殿様が急病になった時そこに居合わせた富山藩の前田氏が持参の薬を処方したところ、回復したのでそれ以来越中の薬は効くということで、全国に販売に行くようになったことなどが説明されていた。

その後上市町に戻り、つるぎ温泉恋月という温泉に浸かってから「居魚家さかい」でぐでんぐでんになるまで日本酒を呑みましたとさ(;一_一)

ある

越中富山を旅する‐其の2

  • 越中富山を旅する‐其の2

江戸初期から日本海を行き来する北前航路が生まれ、ここ岩瀬では江戸前期の寛文年間に港町が形成されたそうだ。岩瀬は加賀藩の領地で御蔵があり、米や材木を大坂や江戸に運んでいた。

岩瀬浜駅から少し戻るように歩いていくと、松月という大きな料理屋が見えてきた。門前には大輪の菊の花が飾られ、老舗の貫録を醸し出す。お客様を見送る女将さんも大店のそれで、一瞬江戸時代にタイムスリップしたかのような空気感を覚えた。その隣に七福亭という団子屋があるのだが、しまっており名物飛び団子??は5/10~10/5の期間の販売という判じ物のような数字が並ぶ。三角のどら焼きが並ぶ菓子屋を左に曲がるとそこは旧北国街道。古の風情が広がる。

最盛期は20件以上の廻船問屋が連ねていた大町新川町通りの中で、国指定重要文化財の「森家」が一般開放されているので訪ねてみた。男二人で完全に「鶴瓶に乾杯」と同じ状態に陥る。案内人の方が出てこられて、立て板に水でするすると流れるようにお家の説明を事細かにしていただいた。森家が戦後この建物を手放してからは、倉敷紡績の大原家に移され、現在は富山市に移管されているらしい。説明が細かで早すぎて、若干分からないことが多々あった。30分ぐらいは喋り続けられたろうと思う。とにかく立派な商家を後にして街並みをとぼとぼと歩くと三味線屋などがあり、絶対芸者衆で賑わったであろうことは容易に想像がつくというものだ。

東岩瀬駅からまた富山駅北に戻ろうとしたのだが、丁度電車が行ったあとで15分待つ羽目に陥る。そして15分という時間が中々長いことを知る。この辺がクルマから公共交通機関へ移行するところの難しさの一つかもしれない。

富山駅に戻り、車で市内の南側を走らせて、富山地方鉄道富山市内線を見て回る。路面電車の線路はどうなっているのかと言えば、道路の下に砂利が敷いてあり、そこに普通の鉄道同様枕木が敷いてあってその上にレールが乗っかっている。それをアスファルトなどで覆い隠し線路だけが道路上に現れているのだ。但し一回覆い隠せばそう簡単には調整できない。だから結構保線が悪くて線路がぐにゃぐにゃなところもあるんだなどと話していた。

そうしたら、アスファルトを剥がして、修復をしている個所を偶然見ることが出来た。それはまごうことなき普通の鉄道線路が道路の下に埋まってている図であった。

話はどんどんマニアックに進む、、、、、

 

2014.11.20:mameichi:コメント(0):[嗚呼うましコーヒー]

越中富山を旅する‐其の1

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米沢を出たのが深夜3時。NHK第一のラジオ深夜便を聞きながら車を走らせる。
小松、飯豊、小国、坂町の順に米坂線を辿っていく。新潟から北陸道へ。

新潟は長く遠い。やっと富山へ入って越中境で朝食。白海老かき揚げ蕎麦を頂く。蕎麦は信州風の黒くて平べったいもので、汁はあくまでも濃く甘い。この辺とは全く違った味であったがそれはそれで美味しく頂けた。ここで約30分ほど仮眠、気持ちよくまどろむ。

目的地は友人宅で富山市の手前にある上市町。なぜここに行こうと思ったと言えば、いつもその友人は私がやっているバンドに駆けつけてくれるのだが、彼がどのようなところに住んでいるのか興味があったのだ。そして彼が新居を建てたというのでお祝いに行くことにした。

ところが聞いていた住所を携帯のナビに入れたが、その家が見つからない。居たのは一羽のダチョウだ????それでも近くにある新しい家を見当を付けて訪ねたら、大当たり!

早速お宅拝見、シンプルではあるが、随所に彼のこだわりが感じられ本当に立派なお家だった。その後2か所ほど仕事上の視察を終えて昼食は回転寿司でパクパク頂く。

それから今回のメーンイベントである富山ライトレール、通称ポートラムに試乗をすることになった。元々は冨岩鉄道という私鉄で、その後富山地方鉄道に合併、そして国鉄に編入され富山港線として2006年まで通常の鉄道として営業していたのだが、路面電車化(LRT)して現在に至る路線なのだ。富山駅北から岩瀬浜までの7.6キロの短い区間である。

国鉄時代最盛期には年間500万人もの利用客があったが、自動車交通の進展により利用者が激減、車両や駅舎の老朽化、運転本数の減少により更に利用者が減少する負のスパイラルに陥っていた。だが、北陸新幹線富山駅などの整備に合わせて、再生を図るため路面電車に変更されたのだ。

なぜ路面電車化されたのか?路面電車化がどういうメリットがあるのかを考えてみたい。まず路面電車はワンオペでそこそこの人数(座席28人、立席52人)を運ぶことが出来る。LRTは従来の路面電車よりも低床で、線路から約30センチである。それによってホームが低く作られゆるやかなスロープは高齢者や車椅子・ベビーカー利用者でも安心して乗降できるのが大きな特徴だ。

また以前の富山港線時代は朝夕の通勤通学時間帯以外の日中は約1時間間隔ぐらいだったのが、現在は日中でも15分間隔となっており、少し待てば次の電車が来る。ほかにもICカードを使えば割引もあり、高齢者はカードを使うことで半額になる。今後富山地方鉄道市内線との相互乗り入れも検討されており、今後も発展を考える鉄道なのだ。

なぜこの鉄道に乗りたかったのかと言えば、自分の町に何か役に立つヒントが隠されていないかどうかということだ。例えば米坂線をLRT化したらと、、、、。難しいのはまず電化が基本条件になるのだが、不思議に南米沢も西米沢も、そして米沢駅もターミナルなのに何故か街らしい街がが形成されなかったということだ。今でも高校生の降りる場所としてしか機能していない。なぜだろうか。

等と考えつつ、今エボラ治療薬で駿の会社「富山化学」を右に見て、競輪場を過ぎると終点岩瀬浜駅。北前船が出入りする大きな港だった街には多くの海鮮問屋が軒を連ねていた話はまた次回。