2011年の東日本大震災、その日はNEC府中におりました、東芝小向とNEC鴨居の宇宙事業部がくっついた宇宙開発新会社で働いていて、新規採用部分の動作確認立ち合いで応接室と現場を行き来していた、一回目の揺れは工場現場で、ダクトがギシギシと揺れ、継ぎ目から誇りやごみが落ちてくる、私が経験した揺れでは小学校2年、昭和39年(1964)新潟地震と匹敵するような揺れ、揺れが収まり会議室で、お客さんとどこが?震源かなと話してるうちに、また大きな揺れ、血相変えて、お客様応接室の受付嬢がグランドへ避難と言いながら各部屋を廻ってきた、ドアは開けたまま、客の人数確認だけ報告と言われ、急ぎそとへ、訓練でなく現実の避難でしたね・・校内放送では、すぐ帰宅するか会社に泊るかの案内で、すでに交通大渋滞が起きているとのアナウンス、事務所に戻ると信じられない津波の光景が映し出されていましたね、その後原発の事故が追い打ちをかけて、毎日原発ニュースが流れ、それはそれは想像を超えた甚大な被害となる震災でした、特に浪江町は、原発がすぐそこ、全員避難という、遺構案内の方が人口2万の住民のうち現在1割ほどが戻って住んでるらしいです、遺構となる小学校以外はみな住宅が流され・いまも周りは何にもない状態・・この小学校は奇跡的に教職員の迅速な判断、児童の協力で全員無事避難できたところです、しかし浪江でも150数名の犠牲者、いまでも数十名の方の遺骸は見つかってない、昨年10月に震災遺構として整備・保存して、防災について考えることや、震災を後世に伝えるため一般公開されている・・・案内してくれた方は地元の人で実際に経験していることから生々しい話・・身がすくみます・・
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