米沢藩士族 雲井龍雄

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伝国の杜から南に行って米坂線の踏切手前にある常安寺に米沢藩士族 雲井瀧雄の墓がある、道路面にその説明看板があります。雲井瀧雄は天保15年(1844年)から明治3年(1871年)と27歳の生涯とある。幕末では奥羽列藩同盟のために活躍し、明治維新後は米沢藩の推薦で新政府の集議院に努めるが、不平士族のために嘆願書を新政府に提出したことや新政府に不満を持つ旧幕府方諸藩の藩士が彼のもとに集まっていたことが政府転覆の陰謀とみなされ処刑されたとあります・・明治3年12月26日に判決その2日後にはに牢獄で斬首され小塚原刑場で梟首(きょうしゅ:さらしくび)という重い刑を受けている、同志13名の斬首、22人が獄死と厳しい拷問による取調べもあったはずですよね、斬首には米沢藩1名もいるようですが・郷里米沢ではその名を口にすることはタブーとされていた・後の研究では冤罪ということが明らかとなっているようです。自分の意に沿わぬものは排斥し、自分たちにつき従うものばかりを出世させ取り立て、正当な戦争を起こそうとするならば、天下の公論を定めて、罪を明らかにしてから起こすべきなのに、急に錦の御旗を利用して策謀によって幕府を朝敵に陥れて戦争を起こし、諸藩を脅迫してさらなる戊辰戦争に駆り立てている。薩摩の軍隊は、東日本に侵攻して以来、略奪や強姦をほしいままにし、残虐行為は限りないが、官軍を名乗って規則と称している。瀧雄はその罪を問わなくてはならないと説いている・・勝てば官軍とありますが「権力を正面から批判する勢力がなければ、社会の健全な発展は図れない」というセリフがあります・・すごい人です冥福を祈ります。秋の日ちょっと寄ってみました

2021.10.14:li-no2:[歴史探訪]

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