昨日は快晴でぽかぽか陽気、登山客もたくさん天元台から西吾妻へときておりましたが、予報通り午後3時から風も強くなり天気が急変、今日はその前線通過で一日荒れた天候となり天元台は朝から運休モードとなりました。土日に向けて泊り来たお客さんはお気の毒さまでした・・土曜だけでも天気良かったからそれが救いですかね・・
ひな人形ルーツ(立雛)
形代から天児(あまかつ)と這子(ほうこ)と呼ばれる人形が平安時代に登場し、幼児の形代の役目を果たすもので、幼児の身近に置いて、幼児にやってくる災いをそれに移した、この行事は当初は貴族の間で行っていたが、江戸時代になると一般の人々の間でも広がってくることになり、”天児”を男の子に”這子”を女の子に見立てて飾るようになってくる、のちに天児は立雛の男雛、這子は立ち雛の女雛へと変化していく・・このようにして形代から”あまかつ”、”ほうこ”といった人形から立ち雛へと変化していく・・こうして雛人形の起源の一つとなっていく・・あまかつ、ほうこは一対の立雛の原型と言われる・紙雛は室町風俗を写したものと言われ登場し、男雛は烏帽子、袴に小袖を左右に広げ、女雛は袴を前に重ねて細幅の帯姿の形でしたとある・・紙雛は素材に布などを用いるようになりますが、体部分は平面であり、立つことはできず、屏風などに立てかけて飾っていました・・形代からあまかつ、ほうこ・・そして立雛となるが座り雛とは基本的に流れが異なると考えているようです・・
ひな人形ルーツ(天児(あまがつ)”と”這子(ほうこ)
形代の流れが分化したと考えられるものが”天児(あまがつ)”と”這子(ほうこ)と呼ばれる人形で、子供が生まれたときに送られる身代わり人形で、子が無事に育つように願いをこめ、3歳を迎えるまでに枕元に大事におかれ成長を見守ったとされる・・医療が発達してない頃・・この災いを引き受ける呪術的要素が多く含んでいた・・そのころは3歳とか5歳まで元気で生きていけるというのが当たり前ではなかった時代です、食べ物も着るものも・・冬の寒さなど現代とは比べ物にならないくらい厳しかったことです・・3歳5歳までの死亡率はそうとう高かったのです、しかし7歳を過ぎるともう大丈夫ということになり,子は"神の子"から"人間の子"として認め,たとえ7つ前に亡くなっても”神の子”として逝ってしまったと考えることにしていたそうである・・
ひな人形ルーツ(形代)
3月3日のひな祭りも終わり、家の周りの雪解けがどんどん進んでおります、今週末20日(土曜)は春分の日となります。春を感じてきましたね・・ここ置賜の川西町玉庭地区は、江戸時代上杉藩の武士が住んでいた地域で、江戸や京都にお勤めがあった際に、買い求め持ち帰ったひな人形がいまでも大切に代々受け継がれており、地域内の古民家などでひな巡りをするイベントが行われます、ひな人形のルーツを人形で作ったものですこしそのルーツを紹介・・ひな祭りの始まりといっても明確な資料はなく、縄文時代には人間の形を模した土偶に五穀豊穣や病気や怪我など身代わりであったとされる人形が存在している、古代から人形を作り、祈りを込めていたことは多くの出土品から明らかになっていることである、初めはわらなどで作った人型の人形であり、やがて人間の形をした(形代)や人形を作り、それで身体をなでたり息を吹きかけての身の汚れや災いを移し、川や海などに流しすてるという、身代わり信仰の一つで・・子供が無事に成長できるようにお祈りするものであった。この形代は現在の流しびなの由来である。かたしろは木や紙や草にわらなどが使われていた。