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仕事の記録1978~SEPACプロジェクト

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極地方のオーロラ現象をスペースシャトルを利用して人工的に確認しようというアイデアの共同プロジェクト。(SEPAC:Space Experiment with Particle Accelerators)と名づけられていた、シーパック、職場ではセパックと言っていた、主に電子ビームやプラズマビームによる人工オーロラ生成実験装置で、NASAのスペースラブ-1号の搭載機器として1976年(昭和51年)に採択、開発は日本の東大宇宙科学研究所が実験・観測機器を担当し、米国側がスペースラブ搭載用管制装置とソフトウエアを担当していて、配属の職場は宇宙研より電子銃プラズマ電磁加速器の開発を担当、製造も同じ部内で行っていました、何年までだったかもう忘れて定かではないのですが自分はこのプロジェクトではなく技術試験衛星Ⅲ型のイオンエンジン装置開発側に回りました、まだまだひよっこの私は搭載機器ではなく地上試験装置から衛星機器開発に関わるようになりました・・セパックは相当苦労してましたね・・それが第一回目のミッションではMPDによってビーム放射による放電現象の励起、臨界速度効果の検証実験、プラズマ放出による帯電中和などに関して科学的成果を挙げたのですが。EBAについては電源に異物が混入したことから機能不全となり、オーロラ実験は不発1992年(平成4年)に行われた第二回目のミッション(NASA実施)で人工オーロラの生成に成功している。地上に帰還したEBAを調査に行ったのは私の仲人してくれたK課長で異物発見にΣ(・□・;)ニュースにも流されて・・悲しい結果に、2回目のチャレンジで成功するも大きく取り上げられなかったという記憶です、その機器はいまでも宇宙研相模原キャンパスの見学展示コーナーに置いてあります、宇宙研は相模原住まいの時は自宅から自転車で10分以内と近く宇宙研での仕事のときはうれしかったですね、長男の結婚披露宴(2010年)で両親に兄弟来ていたので宇宙研見学実現しましたね・・あれからもう8年相模原から山形の里暮らし始めて今年で3年目になります、相模原キャンパスも懐かしいです・

2018.01.18:li-no:コメント(0):[過去の仕事]

仕事の記録1978から2001東芝小向時代(川崎)

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東芝日野から東芝小向に移動になったのは1978年10月で当時50名の移動でした、50名のうち独身メンバーが大半だったと思います、東芝日野寮は会社と同じ敷地の中で通勤時間は数分であったのが川崎地区の寮に移動するまで数週間は川崎まで通ったのを覚えています・・中央線豊田駅から八王子経由横浜線でまだ暗いうちから通いました・・川崎のイメージは小学校のころ公害、労働者の街としてしのイメージしかなく嫌な場所に行くことになったなと思いました、当時川崎駅は今のように洗練された駅ではなく西口は東芝堀川町工場があり小さな飲み屋街がある昭和昭和した雰囲気のところ東口は川崎の歓楽街で東口は公園みたいなところがある駅でしたが公園のようなところに終電乗り遅れたのか、浮浪者なのかおっさんがベンチで寝ていたりあまりいい印象ではなかったような・・東口は京浜地区の工場にいくバス停にたくさん人がいました、写真は昭和時代の川崎駅と今の川崎駅です、現在の川崎駅西口は全く面影がなく東芝堀川町工場はなくなり洗練された駅になってます、川崎のイメージが変わったのは地下街アゼリアができてからですね、男女七人夏物語、秋物語とさんまさんとしのぶさんが出ていたドラマは川崎アゼリアを撮影につかって川崎も横浜にならぶきれいな都市にと変わったと感じたものでした、東芝小向は川崎駅から社バスで5分くらいでしたかね航空・宇宙・防衛・放送機に昔はテレビにビデオもあったところです、小向地区は東芝科学館に東芝多摩川工場、東芝総合研究所もある大きなところ、所属した課は航空・宇宙に防衛、放送機、通信機事業部、青梅コンピュータ事業部にも電源を供給する多岐にわたる電源の開発課でした・・最初の仕事は青梅のミニコン電源(Γ電源)というやつで教えてもらった主任さんは後に課長になり初仲人をやってもらった東大出のKさんに抵抗器メーカの北陸電気幹部の息子さんであるNさん後に東芝を退職して北陸電気長野の工場長になっておりました・・次につづく・・

2018.01.16:li-no:コメント(0):[過去の仕事]

仕事の記録1975-1978年CBトランシーバ(その4)

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CB無線機コブラ135XLRベースステーション・・・車載用でなくベースに使用する機種で販売から40年経ってるのにネットで検索すると結構出てきます元気に使用してるものもあるようで懐かしいです、YouTubeに投稿されているものも2017年と最近のものもあります、中身ばらして説明してるものとかもありました・・ベース機器にはタイマーがついていて時間設定でON/OFFできました、なつかしいパタパタ時計というやつです・・パタパタ時計は、数字が半分ずつ書かれた多数の薄いプラスチック板をはめた円筒の回転により、上下の板で構成された文字板で現在時刻を直読する時計のことです・飛行場の案内板や歌のベスト10などによくでてましたね・昭和らしいです、当時はディスクリート部品で完全アナログ回路、回路図は製品に添付されていました、東芝日野が開発から製造までしていて、この中で使用されてる電源部分はあとからわかったのですが移動した職場の東芝小向の電源開発部門から供給されていたものです。東芝日野のCB無線は入社当時(1975年)単なる小グループ数人のこじんまりしたとこでしたがCBブームに乗りあれよあれよと専門のCB無線開発課から製造課、生産技術部門を有する専門の部に昇格していたのですがあっという間に解散するということになりもとの小グループに戻るということでした・・この年東芝ふくめ日本が衛星3社(NEC、三菱、東芝)を育て専門に宇宙開発をする時期と重なり、東芝日野から50名ほど1977年10月に東芝小向に移動となりました東芝は各工場から人を集め1978年に小向工場内に宇宙事業部を設立して宇宙開発を専門に開始するのでした・・小向は東芝総合研究所、トランジスタ製造の多摩川工場と航空宇宙防衛、放送機にテレビにビデオと多岐にわたる小向工場の3事業があつまる大きなところでした・・当時日野の生産技術の課長が東芝小向の電源開発部の課長と同期ということもあり私は東芝小向の電源技術部に移動となりました、人工衛星の機器開発はこれからの事業だから簡単にはつぶれないからそっちで技術者として生きなさいとのことでしたが、製造から生産技術に移り開発と製造の架け橋みたいなとこで嫌というほど開発のしんどさというより基本の英数国をきちんとしてないと務まらないとこと感じていた私には務まらないと・・せめて生産技術にと願い出たのですがいいからやってみなさいと言われ不安の中東芝小向に移動したのでした・・・続く・・

2018.01.13:li-no:コメント(0):[過去の仕事]

仕事の記録1975-1978年CBトランシーバ(その3)

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コブラがシンボルの無線機メーカ・ダイナスキャン社はウエスト・コートランド・シカゴ6万番台イリノイ州にありました、今どうなってるのかはわかりませんが、当時かかわった技術のメンバーは日系2世の日本人、ドイツ人、イギリス人、韓国人と4人でした・・ほんとアメリカは多民族国家というのを感じたものでした、お世話になったのは日系2世ハワイ生まれの方で父は広島ということでした片言日本語は広島弁で戦争のことを”いくさ”といって父は戦時中言葉にできないくらい大変苦労したらしい・・ちょうど娘さんが生まれたということでキャンデーを配ってました、男の子が生まれると葉巻を配ってお祝いするそうです・・お祝いをもらうのではなく、幸せを配るという風習アメリカらしいと思ったものでした、この会社で驚いたのが一つありますそれは、技術メンバーは全員みな机の真後ろにいつでも送信から受信すべてを試験できるセットアップができてるということです。日本なら都度スペアナからオシロを奪い合って共同の実験室かなんかで貸し借りしながらですがね・・社長の方針で気になったらいつでも実験、性能確認ができるようにだそうで・・当時ガンタイプのポラロイドカメラまで各自持っていたのには驚きでしたさすがアメリカ懐でかいなと感じてましたね。。新機種の性能はダイナの満足できるものではなく数週間予定の改造作業は急遽性能改善とその確認実験という繰り返しの連続となりお金も底をつきホテルは安モーテルに変えて、移動はタクシーから安いバス通勤にして、ホテルでは開発担当、製造技術、製造3名の出張でいつも3人集まり日本の技術人と性能改善対策・・そして改造までホテルに持ち帰り行うという日本人特有の勤勉さにダイナの社員は驚いてました・・その4に続く

2018.01.10:li-no:コメント(0):[過去の仕事]

仕事の記録1975-1978年CBトランシーバ(その2)

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コブラがシンボルのダイナスキャン社はテレビの試験機、測定器の販売から始まりCB無線機に進出したメーカ、当初は自社設計で作っていた無線機もブームでより低価格とするために東芝、ユニデンに依頼することになる、大手企業のモトローラ技術部門で技術を習得して独立無線機に進出と聞きました、ダイナスキャンのサービス修理を行うところでユーザからの評価ヒアリングの機会がありました・・盗難が多いということ、なんでも自分で作るという文化があり改造あたりまえという感じ、鉄砲で打ち抜かれたとかという製品も修理依頼されるとか驚きです・・修理会社もみな大手から独立開業したメンバーと聞きました、会社に忠誠尽くすというより会社を利用して個人で開業するとか会社を渡り歩くという文化の違いに驚きを感じてましたね・・この時はまだ旧機種の水晶マトリクスの製品で東芝製はすこぶる評価が良かったのを覚えてます、当時各社はPLLを利用した新機種投入の切り替え期でしたPLLとは入力信号や基準周波数と出力信号との周波数を一致させる電子回路、入力信号と出力信号との位相差を検出しVCO(電圧変化の発信機)とループを制御することで正確に同期した周波数信号を作ることができ、発信周波数を一定にする携帯電話や無線機の周波数制御に用いられる、技術陣はPLLを利用した新機種開発で残業残業でしたFCCの認可試験などもあり認定設備での新機種EMC試験にも行かせてもらいました・・機種はAM専用機ダイナの機種ではないですが当時東芝はダイナ、トラン、シアーズと輸出してました、私が製造技術で初の主担当となった量産認定機100台はすべて一人で調整試験、評価した店舗デモ機で思いの詰まった機種でしたがダイナの評価は最悪で当初数週間の出張は数ヵ月の長期に及ぶものとなりました・・当時駐在の開発技術は1名で製造技術と製造の2名で100台の132XLRと10台の135XLRという車載とホーム型の2機種のダメだし項目を一つ一つつぶしていくという長期の出張となったのでした・・・その3へ続く

2018.01.09:li-no:コメント(0):[過去の仕事]