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【すぐ読める 今泉篤男の生涯2】

  • 【すぐ読める 今泉篤男の生涯2】

美術評論家の今泉篤男は、

明治35年(1902)、 山形県米沢市に生まれました。

学生時代は、油彩画に熱中し、友人らと同人誌に小説を書くなど、

文芸活動に勤しむ青年だったといいます。

 

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【お問い合わせ】

 米沢市上杉博物館  0238-26-8001

2023.07.16:denkoku:[博物館情報]

【すぐ読める 今泉篤男の生涯1】

  • 【すぐ読める 今泉篤男の生涯1】

今泉篤男は、米沢市出身の美術評論家です。

東京国立近代美術館・京都国立近代美術館・資生堂ギャラリーはじめ、

多くの美術館に関わった「美術館人」でもあります。

企画展「今泉篤男と美術」では、その生涯をゆかりの作家の作品と今泉の言葉でご紹介します。

 

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 米沢市上杉博物館  0238-26-8001

2023.07.16:denkoku:[博物館情報]

令和5年度 上杉文華館「上杉家歴代の文書管理と歴史編纂」④

  • 令和5年度 上杉文華館「上杉家歴代の文書管理と歴史編纂」④

 令和5年度の上杉文華館は「上杉家歴代の文書管理と歴史編纂」をテーマに、国宝「上杉家文書」などを展示します。

 上杉文華館では、国宝「上杉家文書」を毎月入れ替えながら常時展示しています。上杉家文書は、江戸時代以降に行われた文書の管理や歴史編纂を通じて、中世以来の上杉家の由緒や権威、特定の当主の事績を示す文書が収集、選別され、移動や変化を続けながら、現在の構成(2018通、4帖、26冊、保存容器として両掛入文書箱、精撰古案両掛入文書箱、黒塗掛硯箱、赤箪笥 乾・坤2棹、附として歴代年譜325冊)になったことが明らかになっています。

 また、「上杉家文書」とは別に「上杉文書」と呼ばれる藩政文書を中心とした1万点弱の史料群があり、米沢市では令和3年度から文化庁の「地域活性化のための特色ある文化財調査・活用事業」の補助を受け、調査に取り組んでいます。その中核は文書管理や歴史編纂を担った、江戸時代の御記録方や、近代の上杉家記録編纂所総裁伊佐早謙の関連文書です。上杉文書には、国宝「上杉家文書」を深く理解するための手がかりが、豊富に含まれています。

 今年度は本調査事業の成果を活用して2つの史料群を紐解きながら、江戸時代から近代にかけて、文書の具体的な管理方法と歴史や記録の編纂事業、その背景にある藩政の状況や世情をご紹介します。永年にわたり文書を守り伝え、活用してきた人々の営為にご注目下さい。

「上杉文書」調査の詳細はこちら

 

《綱勝から綱憲へ》

展示目録はこちらよりご覧ください。

【展示期間】6月29日(木)~7月25日(火)

 寛文4年(1664)、3代藩主綱勝の急死は、米沢藩上杉家の存亡に関わる一大事でした。会津藩主保科正之の尽力により、幕府高家吉良上野介義央の子(母は上杉定勝の娘三姫)が上杉家に養子入りし、領知は30万石から15万石に半減されたものの存続を許されます(4代藩主綱憲)。綱憲はやがてこの危機を乗り越え、学問所の設立、能楽の振興、文武の奨励などに力を入れていきます。
 綱憲の治世下では、上杉家伝来文書の管理強化と歴史編纂事業も進められました。綱勝の補佐役であった竹俣義秀は寛文5年には文書の整理作業に着手しています。文書の管理は家の継承、存続にかかわる重要案件であり、思わぬ代替わりと領知の半減という危機の翌年に、補佐役自らがこれに取り組んだのです。
 義秀は延宝2年(1674)、家臣に実権を奪われないよう注意すること、上杉家の記録が半端になっているので成人後に完成させること等を綱憲に遺言しました。これが上杉家における歴史編纂のきっかけになったと考えられます。同5年の謙信100回忌も契機となり、藩の儒学者矢尾板三印を中心に、文書の整理(資料3)、古文書の収集と「御書集」の編纂が進められました。その成果は元禄年間にかけて謙信と景勝の年譜として結実し、編纂と記録管理の中心となる御記録方の職務も確立していきました。
 

▼ コレクショントーク

 日時:7月2日(日)  14:00

 場所:常設展示室 上杉文華館

 ※参加には入館料が必要です。

 

皆さまのご来館を心よりお待ちしております。

 

【お問い合わせ】

米沢市上杉博物館  0238-26-8001

2023.06.29:denkoku:[博物館情報]

上杉文華館展示紹介

  • 上杉文華館展示紹介

国宝「上杉家文書」千坂高信書上  寛永初年頃

 

 

正月17日 江戸家老の千坂が提出した意見書で、

江戸初期の米沢藩の軍制が分かる希少な史料です。

前半は藩主の側近くに置く部隊、

後半は侍組を中心とした別動隊に分けて編成を検討し、

兵員不足なので、米沢から増員が必要と述べています。

 

「馬廻」「中之間」「大小姓」「手明」、そして「侍組」など、

米沢藩、上杉軍の諸集団の軍事的な役割が良く分かります。

 

冒頭だけご紹介すると…

「御馬廻」中級藩士65騎を分け、

・6騎は御使番として近習にすいる。

・20騎は御側に置く。

・40騎は別動隊へ回す

 

藩士所有の武器はあるか分からないので、藩の御蔵から貸し出すとよい、

と述べています。

 

唯今御屋敷ニ有人ニ而積覚

一御馬廻  六拾五人

此内

△六人御使番者御近習ニ而

指置、御使萬御用可被 仰付

△廿人ハ御そばニ可被指置?

△四拾人者御用之所へ可被遣也

右何も手前之武具有無不定ニ候、菟角

御蔵馬上具足可被為借候…

 

こちらの史料は常設展示室内の上杉文華館にて

6月27日(火)まで展示中です!

 

2023年度の上杉文華館の展示についてはこちら

 

皆さまのご来館を心よりお待ちしております。

 

【お問い合わせ】

米沢市上杉博物館  0238-26-8001

 

2023.06.17:denkoku:[博物館情報]

特別展「上杉景勝と関ヶ原合戦」展示紹介

  • 特別展「上杉景勝と関ヶ原合戦」展示紹介
  • 特別展「上杉景勝と関ヶ原合戦」展示紹介

展示番号29『10月8日最上義光書状(東北大学附属図書館)』

を簡単に紹介します。

 

縦9.8㎝、横130.8㎝の大きさの紙に、

小さい字で長谷堂合戦の経緯や、当時の義光をめぐる状況が細かく書いてあります。

展示では開いていますが、クルクルと巻くと、とても小さな形になります。

 

義光の周辺では、直江勢は撤退するも、予断を許さない状況は続き、

また宛先である秋田実季の周辺は戦闘状態にありました。

その形から、小さくして隠密に届けられたことが窺われます。

 

また、山形から実季の在陣した大森(横手市)まで10日かけて届けられています。

まさに戦場かいくぐって届けられた書状です。

展示室で、その形からそのような緊迫感を感じ取ってみてください。

 

皆さまのご来館を心よりお待ちしております。

 

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2023.06.17:denkoku:[博物館情報]