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老兵の半生(少年期)

「おはようさま、納豆いらねべか」小さな声で近所を
回る私の姿がありました。
昭和23年のある朝でした
2年ほどの母の実家での生活を終え、長井町の長屋に
引越し父も帰ってきており末っ子の妹も生まれ
私は、小学校1年生になっておりました。
父は結核で闘病生活を続けており、生活は以前貧乏
のどん底で、母が失業対策事業(行政が失業者のため道路
整備などの仕事に"土方"として雇用する)に出かけて
貰ってくる賃金が頼りの、生活でした。
当時の隣近所の子供たちの、遊びは全てにおいて、グループ
毎に行っており、必ずその頂点には、"餓鬼大将"がおり
餓鬼大将が、中学校に入ると新しい餓鬼大将が現れる。
たいていは、6年生の中から選出されるのが常でした。
遊びは、インデアンごっこ、(インデアンと騎兵隊に分かれて
ゴム輪の手作り鉄砲で、林などで打ち合いする)
野川での、カジカとり、水泳、芋に会(じゃが芋に肉の
代わりにイルカ)、冬になると女子はベッタ乗り、
男子は、道路で雪スケート、面白かったです。
小学校まで、徒歩40分餓鬼大将を先頭に、低学年を
間に挟んで、最後尾は高学年の子供たちで、いつも
集団で登校しておりました。
とくに冬季の吹雪の日など、どんなに餓鬼大将の姿が
頼もしく、思えたことか憧れの的でした。
いつかは、俺もなってやると、ひそかに思ったものでした。
一年生の秋運動会の、終わった後あたりから右足の付け根
当たりに、痛みを感じるようになり、日がたつにつれ高熱
を発して、歩くことが困難な日が続くようになり
医者に見てもらうと、股関節脱臼と言うことで、キブスを
かけて様子を見るとの事で、学校を半年ほど休学しましたが
それでも、良くならない掛かりつけの先生が代わり、再度の
診断が、股関節病的脱臼で、結核菌が間接を溶かして
変形しているとの事で、膿がたまっている部分をキブスの
上から、その部分に穴を開けて膿を吸い取る手術を
行い、キブスを取るまでに回復した時にはすっかり、
変形したまま固定し、松葉杖を使用しなければ、歩けない
状態でした。
そのため一年生をもう一度務めなければならない、羽目に
なったのです。・・つづく・・

老兵の半生(疎開暮らし)

「おい、都会子来てみろ」「わらび取りにつれていくから」
7、8歳の、兄ちゃんがたに、連れられ遊びは常に
食料探しで、山菜取りや、野イチゴ、つぶ(田螺)、栗、
栃の実、岩魚取り、葉わさび、キノコ、あるいはイナゴ等
食べられる物は、何でも取る事が、最上の遊びでした。
常に季節、季節で彼らは、どの場所にいけば何をとる事が
出来ると、知っていて私に教えてくれました。
不思議と今で言う"いじめ"等の記憶がないのは、
助け合わなければ、成り立たない地域性が、幼いとき
から、彼らに染み付いていたのかも知れません。
また大人たちの行動する背中を常に見て過ごして
いたせいかも、知れません。
しかしながら、母にとってはいかに実家での暮らしと言え
相当な苦労であった様です。母の荷物から衣服類が、次々と
消えて行くのが、とても悲しい思いで見ておりました。
それらは全て、私たちの食料に代わって言ったのです。
この年(昭和20年)の8月6日広島市に原子爆弾リトルボーイ
が投下され、広島市民14万が、死亡し3日後の8月9日には
長崎市に投下され、死者7万と負傷者7万9千人と
伝えられてる人類史上初めての核爆弾の犠牲者が、日本人
となったのです。
疎開先でも"ピカドン"が落ちたと子供たちの会話にも
もちきりでした。
かくして日本は矢も折れ力尽き、
原爆の投下後の8月14日にポツダム宣言を受諾し
日本は、無条件降伏を受け入れ終戦を迎えたのでした。
・・つづく・・

老兵の半生(疎開)

母が生まれた実家は、山形県の鮎貝村(現白鷹町)にあり
駅から、徒歩で三時間位の所でした。
迎えに来た、10歳年上の従兄弟のリヤカーに荷物と共に
乗せられ二つの山を越え、付いたところが
山と山に囲まれた、小さな集落でした。
平地は少なく、段々畑と谷底のわずかな平地の田んぼ
雪の多い典型的な東北地方の、寒村でした。
林業と山菜、家族がようやく食べるだけの米、冬季に
行う猟、そんな生活のため、相続者以外、多くの人たちは
分校の小学校を卒業すると、都会地等に、移籍して自立して
生活しなければ、家族が成り立たない環境にありました。
(現在は集団移動で人は住んでおりません)
母の実家では、玄関の左手に馬小屋がありまして、太い足の
大きな馬が、一本の棒を境に長い顔を出し黒い大きなめで
私を上から眺め「ぶるぶる」と鼻を震わせ私たちを
迎えて、くれました。
その馬が、怖くて、怖くて母の足にしがみ付き泣き出した
私、「何もしないよ、ほら」従兄弟は馬の鼻頭らを
撫でながら、私ににっこり微笑んだのを、今も鮮明に
覚えています。
その実家の隣接する小屋を、拝借して母子三人の疎開生活が
始まったのです。
1945年(昭和20年)5月の事でした。・・つづく・・

老兵の半生(疎開)

母が生まれた実家は、山形県の鮎貝村(現白鷹町)にあり
駅から、徒歩で三時間位の所でした。
迎えに来た、10歳年上の従兄弟のリヤカーに荷物と共に
乗せられ二つの山を越え、付いたところが
山と山に囲まれた、小さな集落でした。
平地は少なく、段々畑と谷底のわずかな平地の田んぼ
雪の多い典型的な東北地方の、寒村でした。
林業と山菜、家族がようやく食べるだけの米、冬季に
行う猟、そんな生活のため、相続者以外、多くの人たちは
分校の小学校を卒業すると、都会地等に、移籍して自立して
生活しなければ、家族が成り立たない環境にありました。
(現在は集団移動で人は住んでおりません)
母の実家では、玄関の左手に馬小屋がありまして、太い足の
大きな馬が、一本の棒を境に長い顔を出し黒い大きなめで
私を上から眺め「ぶるぶる」と鼻を震わせ私たちを
迎えて、くれました。
その馬が、怖くて、怖くて母の足にしがみ付き泣き出した
私、「何もしないよ、ほら」従兄弟は馬の鼻頭らを
撫でながら、私ににっこり微笑んだのを、今も鮮明に
覚えています。
その実家の隣接する小屋を、拝借して母子三人の疎開生活が
始まったのです。
1945年(昭和20年)5月の事でした。・・つづく・・

老兵の半生(横須賀の空)

「お母さん空がとってもきれいだよ。」
崖の岩壁を彫った、横穴の防空壕の入り口付近から
見える空から、星の光の何倍もの赤い炎が、数え切れない
密度で振っていました。
昭和20年3月の、ある日でした。
父は運良く帰国しておりましたが、今度は兵隊として召集
され、九州のある部隊に所属しており、母と一歳の妹との
三人で肩を寄せ合っての生活でした。
その日も昭和19年11月より始まった、マリアナ諸島を
飛び立ったB29爆撃機による日本本土爆撃の一端で
横須賀軍港や、海軍工廠をめがけての空襲だったのです。
焼夷弾(爆弾の一種攻撃対象を焼き払うために使用)が
降り注ぐ様が私には、花火の大輪の花だったのでしょう。
子供心には、花火の大輪の花だったのでしょう。
そのころの日本は大本営発表とは、裏腹に疲弊し疲れ果て
もう戦う兵器も、物資も燃料も底をつき配給もままならない
状況で、餓えをしのぐため、多くの人々が困難な生活を
強いられていたようです。
支那事変以降、1938年4月に公布された国家総動員法
法の制定をきっかけに広く生活必需品を配給制に
なったことが知られている。
米穀については1982年まで配給制が行われていた。
父から母への再三の手紙で、「子供を連れて山形へ
疎開しろ、横須賀も危ないぞ一刻も早く。」
4歳にして始めての遠出でした。
今と比べれば、比べ物に成らないくらい、困難な
旅であったと、後年母が良く話しておりました
32歳の母は、リックサックを背押された一歳の妹を
背負いその両手には、大きな荷物を持ち、背丈ほどもある
リックを背負った私に、てに持った荷物の端を握らせ、
「放したらだめよ、死ぬ気で掴んでなさい。」
列車のなかは、足の踏み場も無いほどの、人々で
私は母が作ってくれた、小さな隙間に座り込み母のもんぺ
にしがみ付いて過ごした、息苦しい列車の旅を今でも
うっすらと、記憶にあります。・・・つづく・・・