HOME > 創業者の記憶 ~老兵の半生~

老兵の半生(決心)

1972年11月、新婚9ヶ月のある日帰宅すると、
妻に「会社を辞めてきた」自分で金属加工業を始める」
そう宣言しました。
私30歳の初冬でした。
何ヶ月も考え抜いた結果、俺は勤め人は向かない。
我がままだし、自分の過去の行き方を分析してみると
人に指図されてやる仕事には、どうも納得がいかないため
長続きがしない。自分で決めたことをやるんであれば、
結果責任は、全て自分にありどんなに困難でも、納得できる
例えしくじっても、本望だ。
今考えると、妻にとってはどんなに、不安で
結婚をしくじったと思ったことだったでしょう。
金も無し、建物も無し、計画も無し仕事のあても無し
ないないづくしの、決心でしたから、無謀といえば無謀
ただ若さと、気力だけが推進力でした。
その年の世相も、かなりにぎやかなもので
日中国交正常化、沖縄返還、連合赤軍浅間山荘事件、グアムで
元日本兵出征より31年ぶりで発見、札幌冬季オリンピック
電気製品では電卓(カシオミニ)18000ヒット
物価では、ビール140円、掛けそば120円でした
田中角栄(54)内閣が発足され、日本列等改造論の元
土木建設業の黄金時代のさきがけの年になっていくので
あります。たしかこの内閣が今話題のガソリン暫定税率を
取り入れたような記憶があります。
今考えると、その時の私の環境では身震いするほどの
危険性のはらんだ、行為で良く離婚されずに今日まで
来たものだと、妻に感謝です。
・・つづく・・

老兵の半生(卒業)

1965年24歳、ようやく高校の卒業を迎えた私。
その年の世相、経済は、実質成長率は5%以下で、倒産件数が
増え、日銀の公定歩合の三度の引き下げがあったり
政府が公共事業に、1000億の繰上げ支出をしたり
戦後初の赤字国債を発行したり、現在の景況にもにた
経済の悪化に、不安を募らせていた。
海外ではベトナム戦争の激化、インドネシァではスカルノ
大統領の失脚、アイビースタイルの流行、10代の三種の神器
がエレキギター、レコード、テープレコーダー
流行歌に美空ひばりの「柔」バーブ佐竹が「女心の歌」
田代美代子が「愛して愛して愛しちゃったのよ」で
新人賞を取ったりして、とにかく流行歌の多彩な年
その後始まる「いざなぎ景気」前の混沌とした年だった様な
気がいたします。

高校を卒業すると同時に、現況の職場環境に飽き足らない
心が又もくもくと高まってきまして、その後6年ほど
鉄工所、セールスマン、バーテンダー、プレス会社の営業
等々を転々と、渡り歩いていました。
1972年3月結婚しました。妻は当時看護婦で他市の病院に勤務
しておりました。今度こそ現在の仕事で落ち着かなくては
何度も自分に、言い聞かせたのですが、それでも
私のやることはもっと他にあるような気がして、
なりませんでした。
新婚生活の中でも、いったい俺は何をやりたいのだろう
自問する日々が続きました。

・・つづく・・

老兵の半生(中休み)

自分の半生を、ブログに書き始めてから

少し疲れ始めたのかな、過去を振り返っているうちに

時々ふと、思い悩んでしまう。

自分の文才の無さに、愕然とする

今日は、お休みしよう。

・・つづく・・

老兵の半生(高校生になる)

1961年、私は地元の父親の友達の所で、旋盤工の
見習いとして、働いていました。
その職場は、初代社長と私の二人だけの会社で、
工場は鉄工所の一部を間借りして、仕事をしておりました。
(その会社は、当時機械工場では当地区における、先駆者的
存在で、現在三代目が社長をしており、社員も40名を超え
意欲的に、安定した経営を続けております。)
家庭的には、すぐ下の妹は高校三年生、末っ子の妹は
中学三年生で、毎日夜遅くまで、高校受験へ向けての
受験勉強をやっておりました。
ある晩、私はいつもの通り遊びほうけて、遅く家
帰ってくると、「兄ちゃん来年一緒に高校に行こう」
当時長井工業高校が新しく1962年度から、開校することに
成っており、従来からある長井北高等学校が、閉校になる
事が、決まっておりました。新校舎を建設する間、北校の
一部を間借りして、開校するということでした。
「いまさら高校なんて」そう妹に答えてみたものの、
谷中初音町時代の、初恋の相手のあのセーラー服の高校生
の姿を、思い起こしておりました。
もう大学を卒業している頃だと思うのですが。
その後も、妹たちから「まだ遅くは無いよ、解らない科目
は、教えてあげるから」
私は1962年21歳の春、受験を受けたのでした。勿論定時制
定時制課程で、昼の仕事を続けながら、夜は学校と言う
厳しい4年間の生活に入ったのでした。
同級生は、年齢の差がばらばらで、4~7才まであり
私は当然一番年上でした。
この高校に入学した事が、後々私の人生に対する考え方を
大きく変えていくことに成るのです。
・・つづく・・

老兵の半生(帰郷)

1958年夏、私は都会生活に挫折し、帰郷することと
なりました。
19歳のときです。
上京して4年間、必死でもがいてみたけれど、どうも
納得できる状況を作り出せない。
それに、神経性胃炎に悩まされ、沈みきった毎日が
続いており、医者に相談すると、不規則な生活が
原因で、環境を変えないと直らないと言われ、ますます
東京生活がいやに成って行きました。
仕事の都合で、朝食が10時、昼が三時 夕飯が、11時頃
そんな生活が、ランダムに続いていたのです。
こんな生活をしていて、将来どうなるのかな、大きな
夢を抱いて、上京したのにこのまま、靴屋の職人で
終わるのは、我慢が成らなかったのです。
もっと何かが、あるはずだ。
納得できる職業が、あるはずだ。
様々転職をしてみましたが、所詮自分の持っている
キャパ以上の、仕事に就けるはずはありませんでした。
今考えると、幼稚だったんだろうね、其れと同時に
人生をあせっていたことは、たしかでした。

・・つづく・・