HOME > 創業者の記憶 ~老兵の半生~

老兵の半生(背中)

昭和23年、私小学校2年生一年間右足治療のため、小学校を
全休したため、落第し一年下の学年で2年生の仲間入り
未だ完全に治癒したわけでもないので、松葉杖の助けを
借りないと歩行困難な状態でした。
早生まれのせいかあまり、級友との年齢による違和感は
無かったです。
その頃一番の楽しみが、映画鑑賞でした。長井小学校から
隊列を組んで、駅前にある「菊水館」まで距離にして約2k弱
ありました。担任の先生は白鷹町より嫁いで着たばかりの
若い女の先生でふっくらとした美人でした。
玉虫色の道行きを羽織った着物姿で、もんぺを履いた姿は
優しさも加えて、学年の先生がたのうちでも、子供達には
人気ばっぐんでした。
映画鑑賞の日校門の前で、しゃがんで私に背をむけ「負んぶして
行こう」「・・・・・」私はもじもじしていると、「早く」
と声をかけられ、先生の背中に負んぶして「菊水館」までの
往復の道のりを、先生の背中のぬくもりを感じながらの
ひと時を過ごしました。
先生のうなじに、光る一筋の汗を今も鮮明に記憶してます。
今教育機関の中で、様々な不祥事が報道されていますが
「我伝引水」自分だけ楽しよう、自分の利益優先が闊歩する
風潮の中、この先生のような人が沢山いれば、子供達
にも、もっと素敵な人の心を大切にする考え方を、教え込んで
いける様な気がします。

先生は今もご健在で、ご活躍なさっています。

老兵の半生(初めての一人旅)

昭和21年私小学校一年生の夏休み、国鉄長井線の車中
母親に連れられて、母の実家にとまりに行き一日多く
私だけが泊まり、「一人で汽車に乗れるよね、切符も買えるよね」
「うん・・・」初めて一人で小さな旅をすることに、ものすごい
不安を感じていた私でした。三月生まれの私は、同学年生より
小柄で「内弁慶外みそ」な性格であり静かな子供でした。
高々鮎貝駅から長井駅までの、わずかな区間であったのですが
切符を握り締め、一生懸命に駅名を確認しょうとしていたのです。
勿論当時は、蒸気機関車が列車を引張る三両編成であったように
記憶してます。乗客も沢山の人々で列車内では、大きな荷物を
背負ったおばさん、「あんびんしゃっぽ」をかぶったおじさん
達で一杯でした。突然耳元で「僕、あんびん食べない」と言う声
がしました。当時あんこいれの餅菓子など、貧乏な家庭の私など
年に数回、おやつとして買ってもらえるほどでした
隣に座っている、年のころ22さんの"おねいさん"が
新聞紙で、包まれた餅菓子を私の目の前に差し出していました。
乗り越ししないで、無事長井駅に降りることが、出来るか心配で
隣のひとが、どんなひとかは、頭になかったのです。
「そう長井駅で、降りるのお姉さんも長井駅で降りるから
一緒にいこうね」そういって三個の餅菓子を持たせてくれました。
その一つを食べ、後の二つを二人の妹のためポケットにしまい
手を引いてもらいながら、長井駅に降りたのです。
「大丈夫、家までいける」「うん」そうゆうと私は駆け出して
いたのでした。ほんの短い時間の出会いでしたが、なぜか鮮明に
そのことを今でも覚えています。今でも大好きな餅菓子を
もらった性かもしれませんが。

老兵の半生(次世代の諸君へ)

25回にわたって、自分の大まかな半生を書き連ねて
てきましたが、10月29日にブログを呼んでいただいた
件数が、350件とブログを書き始めてから、一日での
最高の数になり、おどろいています。
毎日読んでいただいている、黒沢さんには
感謝いたしております。
時々コメントも頂ありがとうございます。
トウタルで3200件を超えました。
息子に生き方の参考にと、づらづらと書き連ねて
連ねて参りましたが、2代目という立場の辛さも
解っているつもりです。
わがままに生きている、創立者の後始末を課せられる
分けですから、大変だと思います。
なかなか面と向かって、話を聞かせるのも
親子の関係になりますと、感情がウエートを占め
時には、口論になることもあるのが跡継ぎ問題の、
難しさではないでしょうか。
しかしながら、思うのですが「温故知新」
先代の生き方を、理解しそのうえで自分の生き方、
経営の新しいやり方を、確立して行くそれが次世代の
人たちの務めだろうと思います。
どんなに時代の流れが変わっても
生き方の要素、経営する心等の 本質的な骨格は不変で
あると思われます。ただ先代と次世代の、それらを達成する
手法が、違ってくるのは否めません。
世の次世代諸君、時々先代と酒でも酌み交わしながら
コミニケーションを交わして行くのも、大切な事柄と
思うのですが。

老兵の半生(骨格編の終わり)

平成20年、私67歳。創業37年を向かえ、三月の誕生日
に、社員一同の前で三年後の70歳で、社長職を辞して
創業40周年を期に、長男に社長職を与えると
宣言いたしました。
設計部門を独立させ、別会社にして次男に社長職を与え
社員8名を本体から、移籍させ100パーセント子会社として
設計部門の充実化を図り、装置部門の売上げ増と
本格的な装置メーカーとして、全国に羽ばたきたい
思いを新たにしたのでした。
私の社長としての最後の役目其れが、思いもよらなかった
アメリカからの、世界同時不況の発信による株価の急激な
ダウンそれに伴う、円高による輸出不振、何度となく
繰り返されてきた不況の波が、再び繰り
返されようとしている。
しかし今までとはちょっと違って、巷では100年に一度の
不況だとささやかれているが、注意深く分析しながら
乗り越えなければ成らない。
ここを乗り越えるのが、私の最後の務めだと思っている
若い次世代の経営者たちにも、かっこつけずに泥臭く
生き延びろと、言い続けています。
「天は自らたすけるものを助すく」
今製造業にとって、最大の試練を迎えることとなると思うが
年明けの三月まで、生き残ることが出来れば、大丈夫
息子にもそう言い聞かせている。
企業経営とは、何年行っても常に試練が、訪れる。
だからこそ、生きている実感を味わうことが
出来るのでなかろうか。
70に近くなって、どれもうひと頑張り、若さを保つ
材料にしようと開きなおっている昨今であります。
一っ走りの半生の骨格でした。
少し休んで、別の人生編を書こうかと思っています。

老兵の半生(最大のピンチ)

平成13年、私還暦を迎え、操業して30年
工場も三期工事を終え、二人の息子も入社しており
これから、少し楽できるかなと思っていた矢先
その年も景況は悪く、設備受注の落ち込みで、売上げも
極端に落ちていました。
平成14年度何処もかしこも、リストラの嵐が吹き荒れ
バブルショックが、遅れてきた地方の中小企業に取っては
倒産、整理縮小の波をもろにかぶることと、相成ったわけで
私のところも、さすがに例外ではなく如何したら、
乗り切ることが出来るか、親友の税理士と幾度か
話し合いを重ね、運転資金の確保や経費圧縮、
投資効果のない出金は、すべてカット
私を初めとして、幹部社員の給料カット
交際費の全面カット、ロータリー等の会からの脱会、
削減できうる経費は、見得外聞を捨てて、行い
尚且つ過剰社員の、希望退職募集に踏み切ったのでした。
トップとしての、資質の脆弱さにこのときほど、悲しみを
覚えたことはありませんでした。
幸いにも、三、四名の社員の犠牲基、どうにか危機を
脱したわけですが、その後遺症を癒すには、又数年の
歳月が必要でした。その後
それでも、社内設備の確実な充実を図り、社員の数も増え
平均年齢も着実に若返り、設計部門の充実が、次の課題と
なって行ったのです。
そのころから、仕事内容も弱電から車関係の装置製作に
シフトを移行し、県外受注に営業の力を注いでいきました。
製作した装置の、多くはアメリカやトルコ、東南アジア
方面の日系企業の工場で、使われることが多くなり
契約書の勉強不足で、幾度も不利な契約をしてしまうことが
多々ありましたが、それも勉強、これも勉強の時代で
ありました。利益はちょぼちょぼで、ありましたが、
社員の心の中には、装置メーカーとしての誇りが
少しずつ芽生えはじめる様になり、それに伴い、設計から
組立、制御、据付までの一貫作業をすべて、自社の社員で
出来るようになっていきました。

・・つづく・・