米沢観光コンベンション協会

├上杉関連の史跡
上杉家歴代藩主の奥方や子女や、直江兼続など重臣の墓、また宿敵であった武田信玄の六男信清(武田家滅亡後上杉家を頼り高家衆筆頭で迎えられた)の墓などがある。

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藩祖謙信公を祀る神社で、全国から年間180万人の人々が参拝に訪れる。境内には宝在心(謙信公が残した上杉家家訓16ヶ条)の石碑がある。
祭礼日:4月29日


上杉謙信公は、天正6年(1578)3月13日、越後春日山城で逝去された。葬儀は3月15日、大乗寺良海を導師とし、壮厳を極めた。遺骸は甲冑を着け、かめに納めて密封され、不識庵に納め、のち城内墓所に納めた。慶長3年(1598)上杉景勝公(2代目)が会津に移封されると、越後領主堀秀治が、その遺骸の移転を請う。景勝公、会津若松城内に御堂を造って移す。慶長6年(1601)景勝公米沢移封に伴い、遺骸を米沢城に移し御堂に納める。

慶長17年(1612)祠堂を造営し、中央に遺骸、左に善光寺如来尊、右に毘沙門天を安置する。明治4年祠堂を改め、謙信公、鷹山公ニ柱を祀り、上杉神社と称し神祭を行う。明治5年10月2日神号允許、置賜県社に列せらる。明治9年5月21日、社殿竣工、遷宮祭を行う(5月21日、謙信公遺骸を御廟山移葬する。)明治35年4月26日別格官幣社に列せられ、摂社に鷹山公を祀り松岬神社とする。大正8年大火にて類焼、同12年4月竣工。総工事費46万5500円、国庫交付金38万3500円(当時)。

旧米沢城本丸の奥御殿跡に建てられており、松が岬公園の中央に鎮座している。
設計は米沢市出身、日本建築学の権威者で、文化勲章受賞者である伊東忠太
博士。

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名君と謳われた上杉家10代鷹山公を祀る神社で、境内には鷹山公の名言「なせばなる…」や「伝国の辞」の石碑がある。
祭礼日:4月30日
祭神:上杉鷹山公・上杉景勝公・直江兼続・細井平洲・竹俣当綱・莅戸善政



明治4年9月1日、上杉謙信公・鷹山公を祭神とし、初めて神祭を行う。明治5年10月3日、上杉神社の神号官許。明治35年4月26日、別格官幣社に列す。この際、祭神を謙信公のみとする旨通達あり、鷹山公は摂社として別祀すべき旨通達あり。

明治35年6月17日、社号許可「松岬神社」と奉称することとなった。大正元年、新殿造営なり、9月28日遷座祭を斎行し、県社に列し、新饌幣帛料供進神社(しんせんへいはくりょうぐしんじんじゃ)に指定される。敷地は、景勝公御殿、のち世子御殿となった跡。

大正8年9月、郷社春日神社を合祀、大正12年4月、上杉景勝公を合祀する。昭和13年4月、米沢市市制施行50年を記念し、直江兼続の功績を讃えて配祀。上杉鷹山公の師細井平洲先生、同重臣竹俣当綱(たけのまたまさつな)、莅戸善政(のぞきよしまさ)を配祀した。

例祭は4月30日(春祭)と9月最終土曜日(秋祭)。春祭は「米沢上杉まつり」(4月29日〜5月3日)期間中に含まれ、連日参詣者で賑わう。

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暦仁元年(1238)長井時広の築城と伝えられる、米沢城(松岬城あるいは舞鶴城とも称された。)の城跡で、現在は本丸と二の丸の一部が公園となり、濠内には上杉神社・稽照殿(宝物殿)・上杉謙信公像・上杉鷹山公像などがある。


▼米沢城祉(現松が岬公園)
〜長井氏以来、伊達・蒲生・直江・上杉の諸氏の居城した城址跡

暦仁元年(1238)長井時広の築城と伝えられ、松岬城と称した。時広は源頼朝の重臣大江広元の次男で、奥州侵攻の軍功により文治5年(1189)長井庄地頭となる。長井氏治世191年に及ぶ。

康暦2年(1380)伊達氏8代宗遠(むねとお)が、長井氏8代広房を滅ぼして長井庄を領した。15代晴宗が天文17年(1548)米沢城に移った。17代政宗はこの城で生まれた。政宗は、天正19年(1591)豊臣秀吉により岩出山に移封。伊達氏治世212年。

天正19年(1591)より慶長3年(1598)まで、蒲生氏郷(うじさと)の一族郷安(さとやす)が城主となる。

慶長3年より上杉氏領となるが、初めは上杉景勝公の重臣直江兼続が城主となり、慶長6年(1601)上杉景勝公が城主となる。明治2年の版籍奉還まで272年間、上杉氏が城主であった(上杉氏2代景勝公より14代茂憲公まで)。舞鶴城と称す。

明治6年、城が取り壊され、明治7年、公園として市民に開放された。昭和27年より市都市計画として公園に整備、昭和32年10月都市公園の設置を受けた。四周を濠(幅20〜36m・延長約800m)に囲まれ、桜(200本)に包まれた桜の名所ともなっている。

中央に上杉神社、濠外東方に松岬神社、同南方に上杉記念館(旧上杉伯爵邸)・市立児童会館がある。

上杉謙信公像・上杉鷹山公像をはじめ、上杉神社稽照殿(宝物殿)・春日神社・福徳稲荷神社・招魂碑・上杉謙信公祠堂跡・曦山公碑・伊達政宗生誕の地標柱等がある。

伊達氏時代には本丸の正門は北にあり、東は裏門であった。慶長6年(1601)上杉景勝公が米沢30万石の領主となって米沢に入部以来、重臣直江兼続が城の造営を図り、三の丸を設けた。本丸の広さ約2万8,000?F、二の丸約8万?F、三の丸は旧市街地の大半を占めた。上杉氏は舞鶴城と称した。二の丸には役所、世子御殿、寺をおいた。本丸は、正門を東にとり、濠に大橋(長さ27m、幅5.5m)をかけた。本丸周辺は濠(深さ4〜6m、幅26〜36m)を巡らし、高さ4mの堤を築き、その上に塀または長屋を建て矢狭間を設けた。本丸東北隅と北西隅の高台には三階櫓(東北のものは高さ13.4m、梁間11m、矢狭間上階8m、中階28m、下階41m)があり、南堤中央に月見櫓、西側に倉庫を設けた。東南隅高台には御堂を設け、上杉謙信公の遺骸を奉安した。

明治に入り、城を「破却するの法」によって明治6年には解体され公園となる。同9年には御堂に安置している謙信公の遺骸を上杉御廟所に移しお城はすべて形をなくす。

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上杉家歴代藩主の廟所で、昭和59年に国の史跡に指定されました。
正面に謙信公、その左右に2代景勝公から12代斉定公までの御堂が一同に並んでおり、全国無類です。

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鷹山公が恩師細井平洲先生の米沢下向の際、城外遠く羽黒堂の地に迎えられ、普門院で休憩をとり旅の労を慰められた、敬師の美談として名高い寺院(国指定史跡)。

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大同元年(806)弘法大師の高弟、徳一上人の開基と伝えられ、現在の御堂は天保14年(1843)再建のもの。その規模と精巧な彫刻が際立つ伽藍は非常に貴重なものです。
笹野一刀彫りの里にありアジサイ寺としても知られ、米沢三十三観音巡りの一番札所。
毎年1月17日に十七堂祭りと呼ばれる年越祭があり、護摩壇・素足での火渡り儀式がある。

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米沢城を築城した長井時広夫妻の座像(県文化財)と全国的にも珍しい横向の仏像である、「見返り阿弥陀如来尊」が安置してある。
また上杉家の家臣となった奇才、前田慶次はこの地堂森に住まいした記念碑が建立されている。

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