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卯の花姫物語 5-④ 桂江 男の子を生む

 桂江男の子を生む
 こうして桂江は、定七一家の温かいもてなしに安住しておる内に、其年を越して明るく康平七年の二月十日、愈々月満ちて易々と安産のひもをといたのである。定七夫婦は以前から産ぶ屋をしつらえ待っておったのは、彼が猟師の時に貯えて置いた熊の皮が沢山あるので、それを使って産ぶ屋こしらえをしたのであった。
 生まれた赤子は玉のような男の子であった。桂江大そう喜んで、自ら吾が名の一字を頭にくれて桂丸と命名したのである。桂丸が丁度三つになる迄で其家に厄介になっておったが、桂江つくづく考えた事には、自分はどうしても姫が死んだ土地の周辺の内に適当の地を選んで、そこを開拓永住したい。そして姫が御霊を祭神とした御社を建立して崇敬礼拝して一生を捧げ、主人の遺命を果たさずにはいられないと考えた。
 或時、定七を己が部屋に呼んで其旨懇々と相談した。定七大いに喜んで、私も恩師の仇敵たる大忍坊覚念を打ち果して頂いた姫君の御霊崇敬には大賛成で御座いますので、力の限りご協力を申し上げますと云って、そこで定七が云うには、初めっから皆で行ってはどうしようもないので、先ずは其一人彼地に行って、仮の住屋を自分細工に建てた処で御迎えに参ります。それ迄で其家に御待ち下さるようにと云うと萬端の用意を整えて出て行ったのである。
 山慣れをした彼がこととて、何んの苦もなく三淵周辺の処としては相当の小盆地で、最も適当と思う場所を見立てて仮の住居をしつらえた。御社ろ建立の適当な地をも見当を付けた上に大喜びで威勢よく御迎えとして帰って来た。
 そこで定七夫婦も六十以上の老夫婦であるので、吾が家の方は夫婦と話し合いのうえ若夫婦に任せて、定七夫婦と主人桂江母子と共に今度の開拓地に永住することとして、以上四人で移転して来たのである。
 定七が先にしつらえ置いた山小屋に一と先ず落ち着いた。差し当たって神霊を祭 の見立てて置いた場所へ、自分達が手細工の御堂を建立して御霊を祭り、崇敬したのである。これ即ち今の三淵神社創立の由緒と共に現在の境内の場所の処である。
 以上このようにして三淵明神は後世地方の守護神として地方民の信仰厚く、宮の総宮大明神や、寺泉の五所明神等に前後して分霊合祀されたのである。
 この後四人の主従は、全くの山姥ずまいの生活をつづけ、山菜を採ったり、開拓に励んだりした。里人の衆が山稼ぎに出入りする人達と米や其他の生活物資と物々交換をして神霊を崇敬信仰のもとに、桂丸が成人を楽しみ乍ら守り育てておったのである。
 始め其楽園の場所を差して、桂江自ら己が名前其ままに桂江ケ谷(カツラエヤガツ)と呼んでおったのを後世いつからともなく世人が桂谷と云うようになって、それが地名をなしたのである。今では全く長井市平野地区字桂谷と云うことになったのである。

卯の花姫物語 5-③ 姫が死後の頻末

姫が死後の頻末
 本文主要の人物姫が生涯の記述が終わっても全巻の大尾とは未だ云われまい。先に姫が遺命を奉じて安倍館山の牙城を脱出した、即ち姫が後身の役割を果し演ずる、忠臣の女丈夫・桂江がひそみ込んで行った朝日山系の奥。千山万獄の重々する天地に眼を注いで彼女が、其後の動静を探るに項を転じて推進を試みんとするものである。
 桂江泣き泣き主人に別れて、山案内の家来として付けて貰った定七を従えて牙城を脱出した。一旦今の木地山の処におりて行った。元来、定七が生家は、北小国の五味沢で、当時は未だはっきりした地名はなかったが半農半猟の民家が五六軒あった部落であったのだ。家には妻子もおる者であったので、彼は主人桂江を吾が家へ案内しようと考えたのである。今は初秋であるが、これから寒さに向かって来ては妊婦の主人を山にばかり隠して通す事はできないと考えたからである。
 然し乍ら、其深い山又山を妊婦の主人と共に踏破を企てると云うのは容易な事ではない。当時は山道らしい道としてはない時代であった。山を遠く歩くにはどうしても高山に登って峰つづきを渡って通るのが一番によいのであった。
 定七は、朝日山系の山には知らない処がないと云う者であったから、祝瓶山の高嶺に登って峰渡りをつづけて、荒川上流の谷間に下りて行くのがよいものと考えて見たが、妊婦を高山に登らせるは無理と考えて苦心の末いずれ極く少しずつさえ歩るいたならよいだろうと云う事に決心をした。極く少しずつ無理がはいらぬ様を旨とした歩き方をつづけて、夜営をしながら幾日もかかってとうとう荒川上流の谷間へ下りて祝瓶山踏破に成功したのであった。
 これ全く山に明るい定七にあらずして出来得る仕業ではなかったのである。そこに一晩夜営をして翌日は楽々と吾が家に到着して久方ぶりで家人に対面した。之迄での一部始終を物語って、大切な主人であると云うて家の者一同に引き合わせたのである。家人の者も気立ての優しい人達で、快く迎えてくれ、早速奥の一間に招じ入れて何にかれと待遇をしてくれた。之全く桂江が為には世の中に殺す神もあれば助ける神もあるものだと云うたとえは、この事であるような思いたらしめたのであった。

卯の花姫物語 5-② 姫が死後の正しい推論

  姫が死後の正しい批判の論文
 以上、斯くの如くして、姫が一生は終わりを告げたのである。姫が生涯を按んずれば、奥州一の大豪族・安倍貞任の姫として、其世に生を受けたのだ。栄躍栄華のうちに育ち上がって成人した。漸くにして青春の妙味を覚とらんとするの年齢で、父が外交工策の具に供されて、まみえた人は即ち源義家であったのだ。幸か不幸か其人は、世上あらゆる女性が求めんと欲する条件を完全具備の異性であったのが、姫をしてああした運命を赴らしめたと見るのが当たりでありましょう。
 一旦思慕を捧げた義家には、生命をも惜しまぬ迄の心に至らしめた。兵馬 愡、闘戦、兵革の間にも、慕う義家が身を守る心に怠りはなかったのだ。面した中に於いて反逆の父といえど、父ば飽く迄で親である。其の親をして逆賊の汚名から免れしめたいとの思いのままに、降参を進めて終始一貫諜めに諜めてつとめた。が、どれもこれも成らずに終わったので、一門残らず打死で滅亡の運命となったのだ。
 あれ程迄でに戦争を避けんとつとめて平和を守って、父を助けんと心を尽くした姫が行動の生涯は、世上一般に対しても、恋し愛した義家には勿論のこと、はたまた反逆の父に対して迄でも巧あって罪のない姫が行動であったのだ。忍んで京に上って義家が厚い温情に包つまる可くを最後に望みをかけて、古寺の山仲にかくれて機会を待っておった処まで探し当てられ、飽くなき清衡武忠が横恋慕で執ように追い詰められ、京に上る望みをも絶たれて終った。失望した姫はとうとう三淵の深淵が最後の場所となったのだ。
 心ある人が泣かずにいられぬ姫が悲恋である。平和を守るに苦心の一生を捧げて通した人を討った罪名は又皮肉を極めたものである。平和を撹乱した逆賊の残党を討伐したとは非道い表面の理由となって表れたものである。それに対して討ち取った武忠が表面の上に現れたのは、皮肉に尚一層の輪をかけた皮肉を極めた表れであったのだ。
 朝敵安倍貞任が残党を鎮守府の命を奉じて斑目四郎武忠が討伐の巧を奏した戦功と云う峻厳なる表面であったとは。武忠が姫を打ち取ったと云う之迄でにやって来た行動は、姫を生捕りたいのが目的とした行動に終始したやり方であった。それが不可能と見たので討ってしまったのである。表面ばかりが如何に立派な理由となって表れたとしたとても、これを正しく論じたならば、己が狙った横恋慕が叶わぬ恋の滝登りの鬱憤晴らしをやったのか。表面がああした事に該当したと云うに過ぎないものである。
 姫が一生を通してやった行いこそ、愛し慕うる主を守りつつ父をかばって平和を望んで終始一貫したのである。事実は丸きりあべこべだ。浮世は全く裏表と云うのはこうしたことでありましょうか。

卯の花姫物語 5-① 前号までのあらすじ

 卯の花姫が、三淵渓谷に身を投げてしまった。主人公がいなくなってしまえば、物語は終わるの普通であるが、菊地清蔵氏の物語は、さらに続くのであります。
 さあ、どのような物語が続くのか。乞うご期待!

卯の花姫物語 4-⑩ 姫が最後

牙城の落城 姫が最後
 愈々来たった時正に、康平六年八月一日の早天である。武忠が卒いる二百余人の軍勢は、宮村の屯営を出発。草岡村から前山を登って牙城の背面を突かんとするの行動である。
 兵を魚鱗(後世の縦隊行進のこと)に備えて進軍した。えいえい声で登っていった。愈々、山の登り上げの処で昼の兵糧をつかわせて、午後の三時迄で休息の時間を与えて、兵気を十分に養しなった。
 更にそこを立って進軍。午後の四時過ぎ頃に、牙城の背面の手前に到着した。暫く兵を休めて、愈々矢頃の処で、兵を鶴翼の隊形にかえて陣鉦をじゃんじゃん攻め、太鼓をどん々どん々と打ち鳴らして、一斉に鬨の声をどっと揚げて攻撃体勢を示してやった。が、城中ひっそり閑んとして一向に応戦の気配が更になかったのである。(註鶴翼の陣形と云うのは後世の横隊のこと)
 武忠は又しても姫が何をしての計略かと思ったから恐ろしくなった。油断して不覚をとるなと云うて用心をし。た密偵を放ってとくと城内をうかがわせたら、しばらくして帰った。密偵の兵が報告には、城中只の今迄でも人がいた跡の様子であるが、人っ子一人もいない。もぬけの空らと云う有様であるとのこと。
 武忠二度びっくりの仰天で、いや又逃げられたかとあっけにとられて開いた口が塞がらない思いで立っておると、こはそも如何に程もあらせず、山の酉に当る中腹頃から、もろもろと立ちのぼる只一条のノロシが天に伸して上がって来たから武忠は、あぁと云うて二度たまげを三度した様な思いになった。こは又姫が何を計ったかと益々薄気味悪くなって又も密偵をやって、ノロシの上がった処を探らせて見たら、只今火をたいた跡らしい処があるばかりで人っ子一人おらないと云う報告であったのである。
 こりゃ皆姫が智謀の計略で、武忠に冷や汗せ流した恐れを与えておいて、十分に手間のかかる時間を費やさせておる内に、自分は愈々と自殺をして死んでしまう計り事であったと云うことである。
 姫が考えでは敵の声が聞こえる時から、死の支度にかかってよいと思って其間の時間がかかる様にとの計らいであったのだ。
 (愈々、本文主要の人物が最後の段階にと到着したのである。今、其の卯花姫が悲恋の身を沈めた処と云われておる現場を調査して見れば、即ち三淵明神奥の院と称されておる処の深淵は、濃緑の水をたたえて静まりかえっておるが、その上下の渓流の水は白いキバをむいてゴウゴウと岩をかんで流れておる。その様相は全くものすごい絶景である。)