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卯の花姫物語 6-④ 桂江故郷に帰る

 桂江故郷に帰る
 義家、一々聞いて、姫が悲恋のままで死ぬ迄で自分に思慕を捧げた其死を傷み、しばし瞑目のまま、愁傷の念禁じ得ぬ思いであったのである。
 義家やがて桂江に向かって云う様、「現在向うにまわして戦っている敵の大将は武衡(以前の武忠)であるぞ、其方も安心致せ。」と云う只一言であった。桂江も「有り難きしあわせで御座います。」と云う只一言であったのだ。一言にして一言の答えの主従二人が、胸間を往来したのが果たして何ものであったのかは、姫の霊魂のみが知っておるのみであったでしょう。
 義家に「其方、家経が子を生んで、養育成人したのを連れ来たっておるとは予も満足此上もない次第である。故家経も定めし満足と思う。速やかに此処に通せ、予が対面せん。」と云うて呼んだのである。義家またも厚い数々の言葉をかけた上で云うには「本来ならば、この子を予が家臣に貰って、汝と共に京に連れて行きたいのであるが、只今聞いた様に御身等母子は、姫が死んだ其地に永住して、亡き姫が霊を祭祀したのに仕えたい望みとあるのも最の至りである。せめて予が、此地に在陣中ばかりなりとも、吾が家来として借して貰いたいのである。故家経が為の追善とも思うのである。」と云うて懇望したのである。
 桂江母子も大層喜んで、「亡き夫も定めし君の有り難き只今の仰せを承り、如何に満足の事でありますかと存じます。亡き人には何よりの手向けで御座います。何卒御召し仕って下さいませ。」と言上したのである。
 そうして桂江は三日の間此本陣に滞在の仰を豪っておる内に、今は官軍に降参して義家に家来となって仕えておる異母弟である藤原清衡(注:平泉文化を造った藤原三代の初代である。)にも引き合わせて対面もさせられた。
 桂江は、君前に於いて弟とも数々の話を交わした上に、改めて弟(藤原清衡)に向かって、「一旦叛いたにしても改心をして降参したのを大いに喜んで、この後は益々忠勤を励んで、君恩に報じ奉る可し。」の教えに念を入れて訓を与えたのである。
 四日目に君へ御目通りの上御暇を賜って、息男半三郎経春を残して、「亡き家経と同様に御召し仕って下されたい。」旨を言上して願ったのである。義家一々うなづいた上に、厚い御言葉を下されて御別れを仰せ付け下されたのである。

卯の花姫物語 6-③ 桂江、君の御前で

桂江君前の長物語り
 そうして桂江は半三郎経春を連れたって、旅の枕を重ねつつ三日かかって金沢宿(現在の山形県新庄市)に到着して、義家が本陣を訪ねたのであった。
 受付の軍兵が云うにはそう云う人は聞いた事がない、知らないと云う事であった。そこで桂江が更に頭を下げて願った。「左様ならば何卒、八幡殿御側近の御侍様に聞いてきて頂きとう御座います。」と云うてひたすら願うたのである。
 そうして、一とひねりの砂金を其人に、失礼さして頂きますと云うて手渡した。其軍兵はだまって受け取り、暫く「御待ち下さい。」と云い乍ら、陣の奥の方にと行った。しばらくして立派な将校級の武士と思う人と共に出て来た其人が云うには、「御訪ねの家経殿は、殿が御籠臣で立派な御人でありましたが、十年以上も前に突然の急病で亡くなられてしまいました。」と云うて教えたのである。聞いて仰天した桂江は、人目も恥も忘れて其場に倒れて、よよとばかりに泣き崩れたのである。之を眺めた其人も驚いて、「如何なる次第で御座いますか、して又貴女様は何人の御内訌様で御座いますか、其は八幡殿の家臣三浦平太郎為次と申す者で御座います。御差し使いも御ざなくば委細御聞かせ下さい。我が君へ言上仕り、御計らい上げますから。」と云われて、桂江は吾れに返って答えたのである。改めて頭を下げ、「取り乱して無調法で御座いました、御聞き下さいませ。」と云うて語った事は、前述の通りの長物語りの委細を語ったのであった。
 為次も貰い泣きに涙を流し、「早速主君に言上して上げますから、暫く御待ち下さいませ。」と云うて向こうに行った。しばらくにして出て来て云う様、「ただ今早速君前に連れて参れ。との仰せでありますので、御案内しらんいざ参られよ。」と云われて、経春を待たせておいて君前に出て末座に低頭平身したのみで、しばしの間は頭も上げ得ずに、満感こもごも、感慨無量の涙が滝をなして座前を潤すばかりであった。声さえ出し得ぬありさまであったが、流石は女丈夫の桂江、吾れに返って恭々しく一別以来の御挨拶を言上した上に、古寺で家経と別れて以来の今に至る迄の委細をつぶさに言上に及んだのである。

成田駅前変な民俗学 3-①置賜の語源

 全国の多くの皆さんにとっては、「置賜(オキタマ)」という地名は極めて難しい読み方であったと思います。そんな困難を乗り越えて、このページまでたどり着いてくれた方のために、ちょっと面白いお話を致します。この語源は,遠く東南アジアやヨーロッパまでつながる壮大なロマンがあります。今回はその第1回目で,「まほろば」について考えて見ます。多少の不正確さを念頭に、語源学を楽しんでください。
 
 山形県が生んだアララギ派の歌人 結城哀草果は、映画「スィングガールズ」のロケ地ともなった、羽前成田駅近くの葉山の山並みを見て、次のように詠んでいます。「置賜は国のまほろば 菜種咲き若葉しげりて 雪山も見ゆ」。
 まほろばとは、丘陵に囲まれたのどかで実り豊かな土地という意味です。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が詠んだといわれる「大和は国のまほろば たたなづく青垣山こもれる 大和しうるわし」の句に通じるものです。置賜には、国の指定史跡「日向洞窟」をはじめ、縄文時代の遺跡が各所から発掘されていることからも、古代からまほろばであっただろうと思われます。

成田駅前変な民俗学 3-②置賜の語源

 さて、「置賜」の地名が初めて記録に出てくるのは、持統天皇3年(689年)の『日本書紀』です。陸奥の国・優嗜曇郡の蝦夷が僧になりたいとの申し出を、天皇の詔により許可したと記述されています。優嗜曇は「ウキタム」、または「ウキタミ」と読ませており、承平4年(934年)頃に編纂された『和名類聚抄』では、「於伊太三(おいたみ)」の字があてられています。
 「置賜は国のまほろば」と詠まれたように、この地域は、豊かな土地であったと思われます。それは、この地に天皇領や摂関家、後白河法皇の領地(本所)であったことからも推測できるものです。置き賜う=興玉=オギタマ(伊勢の二見ケ浦には興玉神社がある。)という名前からも、当時の権力者は、条件の良い豊かな土地を自分のものにしていたと考えられるからです。
 さらにこの地方は、西東北における蝦夷と大和朝廷との境にあたり、国土防衛線の意味もあったと言われます。このことは、西東北地方における前方後円墳の分布においても、当地の南陽市に存在する稲荷森古墳の特異性からも伺うことができます。蝦夷集落を管理しなければならない最前線であったとすれば、置賜は「日置郡、置部(へきべ)」に関した名前とも考えられる。「へき部」とは、古代出雲族から出た氏族の名前であるが、その後役職名となり、「住民の戸数を調べる仕事で、税務と行政」を司る意味に使われるようになったと言われています。

成田駅前変な民俗学 3-③置賜の語源

 故吉田東伍氏は、『大日本地名辞書』で、「優嗜曇」はアイヌ語であろうと示唆しています。ウキタムはアイヌ語で、ウ(広い)-キ(葦や芦のような植物)-タミ(谷地)で、「広い葦や芦の生えている谷地」という意味です。古代の置賜地方は、沼や湿地の多い地方であったので、ウキタムと言われたのが郡名になったという説です。
 さらに、ポリネシア語から地名を読み取る研究をしている井上夢間氏は、ウキタマ・オイタミ・オキタマは、マオリ語で解釈すれば、「ウ・キタ・マ=乳房(のような山)で締め付けられた清らかな土地」の意味であるとしています。この解釈から浮かぶイメージがありませんか。
 明治の初期に日本を訪れたイギリスの女流旅行作家イザベラ・バードが、紀行文「日本奥地紀行」の中で、置賜盆地の風景を評した感動に通じるものがあると,私は感じます。女史は、『(置賜盆地は)まったく「エデンの園」である。「鋤で耕したというより鉛筆で描いたように」美しい。米、綿、とうもろこし、煙草、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、西瓜、きゅうり、柿、杏、ざくろを豊富に栽培している。実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカディア(桃源郷)である。』と記述しています。
 皆様には、このような諸説をどのように受け止められたでしょうか。故郷・置賜には悠久の浪漫があると思いませんか。そして,それが東南アジアやヨーロッパまで通じるものがあると思いませんか?あなたの故郷の語源を調べてみてください。