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若者達へ ①上を向いて歩こう 

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「上を向いて歩こう」と「悲しすぎる若者へ」

 とある学校で起きた事件は,大変ショックであった。寂しすぎる子供や若者の姿が見えて悲しい。そうした若者に伝えたい思いに駆られている。
 坂本九の「上を向いて歩こう」という歌をご存知であろうか。歌詞をそのまま読めば,「上を向いて歩く」その理由は「涙がこぼれないように」である。この「涙」とは、嬉し涙でないことは間違いないが、どうも悔し涙でもないようなのである。例えば働きながら定時制高校に通っている若者が、故郷の両親を思い、あるいは里親の冷たい仕打ちを思い、涙を流して帰る風景が思い浮かぶのである。思いっきり泣いた後に、空を見上げて星を見ながら、「それでも明日から頑張るんだ」という思いの歌でなかろうかと思うのである。
 さてさて、この勝手な推論の適否は別として、現代は「涙の意義」を考えるべき時代ではなかろうかというのが、私の持論である。親子が殺しあう、子供同士が傷つけあう、という今日の社会環境において、加害者である大人や子供達が、大声を出して泣いたことがあったのだろうかと思うのである。私には、何かしら、吐け口が見つからないままに、寂しく壁を見つめている彼らの姿が思い浮かぶのである。
 坂本九さんのヒット曲は、「上を向いて歩こう」⇒「見上げてごらん夜空の星を」⇒「明日があるさ」と続きました。若者達よ、泣きたいときは泣けばよい。涙は、いつも温かいんだ!。そしたら、また朝が来るんだぞ。死ぬんじゃないぞ,死なないでくれ!!

変な民俗学者  文化とは何か

 本日、長井市の「新春文教のつどい」に参加する機会を得ました。その中で、本年度、長井芸術文化賞を受賞された若柳秀美さんが披露された『長唄 松の緑』という日舞を見ることができました。その時、はっと思うことがありました。それは、「これが日本舞踊の原点ではないか」という思いです。そこでまた、適当に考えた訳です。
 「あれっ『芸』って草冠なんだ」。そして草冠の字を挙げてみたら面白い。草、花、茶、花柳、若柳・・・、日本の伝統芸術の基本が全て草冠なんだ。これは驚きだった。思えば、英語圏でも「カルチャー」の言語が「アグリカルチャー」である。この中には、東西を超えて、歴史を超えて、さらに宗教の違いも超えて、自然と人間の生き方に通じるものがあるんだと感じた。
 そして、芸術文化賞の賞牌をデザインした長沼幸三先生(「長井の心」を残した先人)の言葉にこんな言葉があった。

 賞牌の【中央の顔】は古代日本の女性の顔:山も川も神であり、自然は自分たちを豊かにしてくれる仲間であった。【顔の周囲の二重の輪】は、曲線である。直線の冷たさに対する柔らかさ、猛々しさに対する優しさ、刺々しさに対する和やかさ。同時にこの曲線の美しさは、長井を囲む山々の稜線の美しさでもある。
 長井の芸術文化は、自然と調和融合の中で発展し、その目的を達していただきたい。

 俺が一番、私が一番などと言わずに、それぞれの道を究めてほしいというメッセージではなかろうか。こんなことを思ったとき、日本文化の生成と発展の歴史を、一つの物語として表現するような『日本文化の芸術祭』をやってみたいと感じた。変な民俗学者としては、それ以上に考えてみたいのは「芸とゲイの研究」なのであるが・・・。
 
2013.01.27:orada:コメント(0)

黒獅子伝説『卯の花姫物語』 7-⑪ 編者の独白

 長井の超長~い物語の最後の最後まで読んでいただいた皆様に、心からの感謝を申し上げるとともに、その忍耐強さには敬服いたしております。(笑)
 さてこの物語の原作者は菊地清蔵さんという方で、「おらだの会」会員の菊地鉄夫さんの祖父です。菊地さんには、「おせきの物語」に続いて「卯の花姫物語」をこのホームページに掲載することにつきまして、快くご了承いただきました。この場をお借りして改めて感謝申し上げます。また、この原稿制作にあたって、大変なご尽力をいただいた孫田ヒロミ様にも、心からの感謝を申し上げたいと思います。
 本日、ようやく完結することができました。少しは、菊地清蔵さんの思いを後世に伝えることができたかなと思い、正直、少しホッとしているところです。「道の奥」で「川の奥」でもあるこの長井の地に、東北全土覆った日本の歴史のはざまの中で、愛と義と優しさに生きた人々の物語があったことを、うれしくまた誇らしく思うものです。
 最後に、この物語を最後の最後まで読んでくださった皆様へ。もしも機会がありましたら、長井に足を運んでいただき「黒獅子祭り」や卯の花城の跡が残る「文教の杜」においでください。その際は、当然ながら山形鉄道に乗り、かの有名な『羽前成田駅』まで足を伸ばしていただければ存じます。変な会長がお待ちしております。

 さて、次の時代には、この地にどんな物語が生まれるでしょうか、乞うご期待です。本日はこれをもって、千 秋~楽~~~!ようーぺぺんぺん((笑))

黒獅子伝説『卯の花姫物語』 7-⑩ 愈々最終章

摂関政権批判検討の結び
 奥州『後三年役』の後に、義家が功労のあった部下の将兵にも論功行賞をして貰いたいと云うて上奏をした時なども、例によって朝廷公家が長論議の揚げ句の返答に、「彼の戦は、私闘の戦と認めたので朝廷で論功行賞をする筋合いのものでないと決議」と云う申し渡しであったとは呆れたものである。最も彼の戦が始まったのは清原一門の内訌から出発しておるとは云うても、愈々戦さになってしまった以上は、京都朝廷で任命した鎮守府将軍に叛むいた者共を追討するのは、当然逆賊征伐の戦争に間違いのないのは事実である。
 又義家が陸奥守と云う国司の立場から実衡を助けて戦っておった中途に、実衡が病死したからとて、今迄で戦っておった反逆人の者共をそのままにしておかれるものでないのは当然の事である。ひきつづいて義家が追討の巧を遂行したのである。これを以て私闘の戦さとは何事である。只戦になる前の争いが清原氏一門の内訌が原因であるのを、恩賞を与えたくないのにそれを狙ってかこつけにしたと云うものである。義家が日頃君への忠心深い性格から、それでも朝廷を恨もうとはしなかった。
 情が篤くて仁心深い義家が、私財を投じて有功の武士を厚く報いてやったと云う。(情けは人のためならず)慶を子孫に延ばしたとはそうしたことでありましょう。やがては来たる彼が子孫から、鎌倉右大将頼朝と云う不世出の英雄が出て、坂東の武士を配下とした基盤に立って鎌倉幕府の創立となり、つづいて室町幕府、更に江戸幕府と何ずれも彼が子孫である。その後の七百年の基盤となって明治維新に至っておる。
 以上摂関政権と武家政権との対照批判を試みて、愈々本文完結の挨拶に替えさせて戴きます。  終わり
昭和三十七年九月五日
            菊地清蔵

黒獅子伝説『卯の花姫物語』 7-⑨ 摂関家批判の七

摂関政権批判の五の中の藤原忠文ノ四
 其後の彼は死を決して全く食を断って、かみひげは伸びるに任せ、爪も切らずに伸びほうだい。生き乍らの魔王となって形相もの凄く、毎日毎日罵り叫んで力に任せて拳を握ったので、両の手八本の爪八ツが手の甲を突き通し、鮮血だらだらと流れ出る有様。俺はこうして不遇のままでこの身を終わるのであるから、其の後ち神となって、不遇の人達が身の安全を護ってやろうと口走りして、悶々の中に同じ事をくり返して遂う々悶死をして終わったと云う。如斯にしてあったら雄偉の朝臣参議忠文は、豪奢極る摂関政権が与え嫌い政策の犠牲となって、怨みを呑んで死んで終ったのである。
 一方関白家でも忠文がおのが一家を恨んで怨み死にしたと云う噂を聴いたので、其崇りを恐れ恟々として怯えておる内に次の様なことが起こったのである。
 其先き朝廷で行われた論功行賞会議の際に、座長格は関白忠平たるは当然であったが、彼が次男の中納言師輔は忠文無賞論に大反対した。云わく、「其論議は不当でありましょう。忠文は途中で引き返したと云うても、戦さが終わったからで何も臆病で逃げ帰ったと云う訳でないから当然の行動である。東国の戦況が好転したのも偏に忠文の様な器量優れた人物が、征討大将軍で大軍の進軍途上があればこその好果を得たのである。忠文に功労無いとは云われまい。」と云う堂々たる論法であった。しかし、父忠平と長男の大納言実頼は頑として無賞説をとなえて承知しなかったと云う。(其の頃は己に関白家の実権は大納言実頼が握中にあったのである。)そうした故によって実頼は非常に恐れ怯えて暮らしておる内に間もなく彼が男の子と女の子の二人がえたいの知れない不思議な病気で相次いで死んだと云う。世間ではそれ見ろ忠文を悶心させた天罰だと云うた。実頼自身もそう思ってますます怯えおののいた。遂う愈々彼が怨霊を慰めんとして、立派な御祠を建てて神に祀ったのが今京都の宇治にある「離宮明神」と云う神社は即ちそれである。(註 不遇の人が御まいりすると開運に霊験あらたかの神様だと云われておる)
 以上の様に、凡て摂関政権の持主氏の長者関白家では、己が一家ばかり天子も及ばぬ賛沢ざんまいに暮らしており乍ら、下の者に与える恩賞を否定したものである。何かにかこつけては出さない工面をしたものであったと云う。