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’13 成田駅前「雪灯り回廊祭り」②

  • ’13 成田駅前「雪灯り回廊祭り」②
【写真提供:下宿 齋藤さん】
 この写真は、感動ですよ。イルミネーションの灯りが、駅舎の屋根から垂れ下がった氷柱(つらら)に反射しています。きれいですよね。
 会長談:きれいだと感じられる人は、心がきれいな人なんですよ。

2013.02.12:orada:コメント(0):[成田駅イベント情報]

’13 成田駅前雪灯り回廊祭り①

  • ’13 成田駅前雪灯り回廊祭り①
 今年の冬は、妙に雪が少なくて、いつ「成田駅前雪灯り回廊祭り」を実施したらよいのか、とても難しい状況でした。2月2日の「第10回長井雪灯り回廊祭り」の日は、雪が少なくてしかも雨模様でした。う~む。
 そして2月10日(日)、宮崎会長からのお触れが発信されたのです。「本日午後4時、成田駅集合!!」。 (会員巷談:会長また酒飲みっちゃぐなったらしいぞ)
 会員がそろった中で、宮崎会長が挨拶。「吉川病院から再三再四にわたって、『今年の雪灯り祭りは、いつやるんですか。患者さんが楽しみにしてるんです。』という電話をもらいました。暦と雪質と雪の量を考えると、今年は2月17日しかない。どうか協力してくれ。」と素面で語る訳よ。「やるべよ!福島から吉川病院に来ている人のために」「そうだ、そうだ、上杉雪灯籠祭りなんかぶっ飛ばせ!」とか言って盛り上がるんですよ。
 そんなこんなで、お暇な方や成田駅に縁のある方、2月17日午後1時、成田駅に集合してください。待ってま~す。
2013.02.12:orada:コメント(0):[成田駅イベント情報]

 日本文化論①

 先日、長井市の「新春文教のつどい」に参加する機会を得ました。その中で、本年度、長井芸術文化賞を受賞された若柳秀美さんが披露された『長唄 松の緑』という日舞を見ることができました。その時、はっと思うことがありました。それは、「これが日本舞踊の原点ではないか」という思いです。そこでまた、適当に考えた訳です。
 「あれっ『芸』って草冠なんだ」。そして草冠の字を挙げてみたら面白い。草、花、茶、花柳、若柳・・・、日本の伝統芸術の基本が全て草冠なんだ。これは驚きだった。思えば、英語圏でも「カルチャー」の言語が「アグリカルチャー」である。この中には、東西を超えて、歴史を超えて、さらに宗教の違いも超えて、自然と人間の生き方に通じるものがあるんだと感じた。
 そして、芸術文化賞の賞牌をデザインした長沼幸三先生(「長井の心」を残した先人)の言葉にこんな言葉があった。

 賞牌の【中央の顔】は古代日本の女性の顔:山も川も神であり、自然は自分たちを豊かにしてくれる仲間であった。【顔の周囲の二重の輪】は、曲線である。直線の冷たさに対する柔らかさ、猛々しさに対する優しさ、刺々しさに対する和やかさ。同時にこの曲線の美しさは、長井を囲む山々の稜線の美しさでもある。
 長井の芸術文化は、自然と調和融合の中で発展し、その目的を達していただきたい。

 金剛流も能から生まれたものである教えてもらった。こんなことを知ったとき、日本文化の生成と発展の歴史を、一つの物語として表現するような『日本文化の芸術祭』をやってみたいと感じた。長沼幸三先生の言葉は、「俺が一番、私が一番などと言わずに、それぞれの道を究めてほしい」というメッセージではなかろうかと思うのである。
 ま、変な民俗学者としては、「芸とゲイの研究」の方が興味あるのだが・・・。

若者達へ ③川を下った少年達

 そしていよいよ、最終日に最大の難所が待ち受けていた。岩が両岸にせまり、ちょっと間違えば大怪我をするかもしれない場所があったのだ。中学生を中心にクルーを組んだが、東京からたった一人で参加した男の子が、体調を悪くしてしまった。彼に「お前、行くか」と聞いた。彼は、目に涙を浮かべながら「行きます。行きます。」と訴えてきた。「よし、行け。頑張れ!」と言って送り出した。後から聞いた話では、皆がボートを降りて引いて歩いた浅瀬から、急な深みに入るときに、彼は小学生を先にボートに乗り込ませ、彼が最後にボートに滑り込んだそうである。
 いよいよ酒田まで到着したとき、一人一人に感想や俳句を発表してもらった。その中の一人は「酒田には希望というものがあり」と詠んだ。自然との感動体験は、詩人にさせるものだと感じたものである。
 今、心が荒れていると言われ,親子の関係も、子供同士の関係も異常としか思えない事件が報じられている。しかしながら、生まれてきた子供達は、純真無垢なものである。体に障害を持って生まれようと、「たった一つの宝物」の世界がある。子供が荒れるのは、大人のウソを見抜くからではなかろうか。初めて出会った押切さんに涙を流したのは,押切さんの心に触れたからであろう。
 「あー、夏休みになって子供達の顔を見ないですむ」と言ってスタッフとして参加した学校の先生は、最後に「子供は少しも変わっていなかったんだ」とポツンと語った。あるスタッフは「この旅は、自分探しの旅だったんだ」と語ってくれた。最上川が教えてくれたものは,それぞれに,大きいものがあったのだろう。
 こんなことが,これを読んでくれた人にとって,何かの役に立ってくれれば幸いである。人生には早瀬もあれば澱みもあるさ,広き野を巡って生きれば,綺麗な夕日が見えるさ!苦難を乗り越えた者のみが見える虹があるんだ。

若者達へ ②父なる川・最上川

 「悲しすぎる子供達」の続編として,「最上川冒険の旅・200キロ」について書いてみたい。平成10年に行われたこの事業は、山形県の子供達を募集し、2泊3日で最上川源流の地・長井から酒田までボートで下るものである。キャッチコピーは「最上川よ、父の強さをこの子達に与えたまえ。母なる心を持ってこの子達を守りたまえ」。長井と新庄市の子供、さらに東京の子供も参加し、15人になった。スタッフは、職場の同僚や坊さん、学校の先生、そして万全を期すために国土交通省、建設協会のバックアップもいただいた。
 初日は、長井に集まり、ボート から落ちたときの練習をやり、長井の参加者の自宅に民泊。翌朝、緊張した顔の子供たちは、それ以上に心配げな両親に見送られていよいよ出発。その日は、村山市の松田清男さんが主催する「卒業のない学校」に宿泊。カレーライスを自分達でつくり、楽しく過ごさせた後に、松田学長の講話の時間である。子供達には、「先生から足をくずして良いですよ」と言われるまでは、正座しなさいと伝えていた。板の間にである。その姿を見て、松田学長は「君達の姿勢は素晴らしい。背骨は人間の柱である」と話して、「山形県民歌」を教えてくれた。県民歌は、昭和天皇の句に島崎赤太郎が曲をつけた歌であり、超レアものである。
 「広き野を流れゆけども 最上川 海に入るまで 濁らざりけり」
 そして2日目は、新庄市の本合海が終着点。そこで、最上川観光会社の会長である押切六郎さんの講話を聞き、本合海地区の人達が作ってくれたバーべキュー大会と花火大会を楽しんだ。子供達が宿舎に帰る時間が近づき、押切さんが子供達を集めて話をした。
 「最上川は山形県の背骨である。君達はその最上川を下って、ここまで来た。君達よ山形県を背負う人間になれ。私が、南洋の戦地にいた時に戦友と共に県民歌を歌ったんだ。その歌を君達と一緒に歌いたい。」と。
 押切さんを中心にして「広き野を、流れ行けども、最上川」と歌い始めたときに、子供達は涙で声を詰まらせて歌を歌えなくなっていた。宿舎に帰るときに、一人一人が、押切さんと泣きじゃくりながら、握手をしていた。