性と生とSexについて考える

 ちょっと昔のラジオ番組で、『小沢昭一の小沢昭一的こころだあ~』という番組がありました。私は、この番組を聞いて“変な民俗学者”になってしまったのでありますが、漢字と英語を「おらだの会的心だ~」風に考えるとどうなるんだろうか。 

 それはさておき、本日は「性と生を考える心だ~」&「SexとSexualityを考える心だ~」をテーマにしたいと思います。まずは、日本語の「性と生」を適当に考えて(?)みましょう。生に心を加えたのが性である訳だ。この意味は何かと言うと、生きるために、種が生命をつなぐために必要なのは基本的には性(セックス)であったのだけど、そこには“心”があるということになります。男性と言い、男生とは言わないのも面白いと思いませんか。心あるいは人格を持った存在があって、その男女が結ばれるのにも、大切なのは心=愛なのではないだろうかと思うものです。「偕老同穴」と言った言葉があるように、これが、動物と人類を分ける最も大事な部分と思えるのです。

 さてさて、英語のSexとSexualityの場合もどうも似たような感じがあります。セクシャリティの語尾はコミュニティーやリアリティー、パーソナリティーと似ていて、ある種の「存在するもの」を意味するような気がしませんか。性差を踏まえて存在する人格が、セクシャリティではないのでしょうか。その次にセックスがあるような気がします。

 こうした解釈が正解なのかわかりませんが、大昔、言葉を創った人々に思いを巡らせても面白いのではないでしょうか。

 【追 伸】 ここでもっと気になってきたのが、性もセックスも何故“S・セ”から始まるんだろうという事です。誰か教えてくれませんか? 

 

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