黒獅子伝説『卯の花姫物語』 7-⑩ 愈々最終章

摂関政権批判検討の結び
 奥州『後三年役』の後に、義家が功労のあった部下の将兵にも論功行賞をして貰いたいと云うて上奏をした時なども、例によって朝廷公家が長論議の揚げ句の返答に、「彼の戦は、私闘の戦と認めたので朝廷で論功行賞をする筋合いのものでないと決議」と云う申し渡しであったとは呆れたものである。最も彼の戦が始まったのは清原一門の内訌から出発しておるとは云うても、愈々戦さになってしまった以上は、京都朝廷で任命した鎮守府将軍に叛むいた者共を追討するのは、当然逆賊征伐の戦争に間違いのないのは事実である。
 又義家が陸奥守と云う国司の立場から実衡を助けて戦っておった中途に、実衡が病死したからとて、今迄で戦っておった反逆人の者共をそのままにしておかれるものでないのは当然の事である。ひきつづいて義家が追討の巧を遂行したのである。これを以て私闘の戦さとは何事である。只戦になる前の争いが清原氏一門の内訌が原因であるのを、恩賞を与えたくないのにそれを狙ってかこつけにしたと云うものである。義家が日頃君への忠心深い性格から、それでも朝廷を恨もうとはしなかった。
 情が篤くて仁心深い義家が、私財を投じて有功の武士を厚く報いてやったと云う。(情けは人のためならず)慶を子孫に延ばしたとはそうしたことでありましょう。やがては来たる彼が子孫から、鎌倉右大将頼朝と云う不世出の英雄が出て、坂東の武士を配下とした基盤に立って鎌倉幕府の創立となり、つづいて室町幕府、更に江戸幕府と何ずれも彼が子孫である。その後の七百年の基盤となって明治維新に至っておる。
 以上摂関政権と武家政権との対照批判を試みて、愈々本文完結の挨拶に替えさせて戴きます。  終わり
昭和三十七年九月五日
            菊地清蔵
2013.01.27:orada:[『卯の花姫物語』 第7巻]

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