桂江母子義家が陣中見舞い
後三年の役の戦話しには色々面白いものが沢山ある義家が勇臣鎌倉の権五郎景正が十六歳初陣初戦の功名武勇伝の話や八幡太郎義家が智謀談の様に様々にあるが本文と直接関係のないのは く抜きにして推進するのである。今は竜城軍の総大将格武衡は成らば義家を怒らせて城近くにおびき寄せて狙い討ちに射取ってしまう様と又も一つはいつも義家とは前九年役以来からの恋の敵同士である。逆か怨みも以ておると両方であるので或時一計を して義家に対する非常に口きたない悪口を城の櫓の上から大音の名人の雑兵に千任と云う者がいたのを、聞くに耐えない程の口きたない悪口を城外に向かって罵しらしめたのであった其悪口の筋はこんなものであった。
前九年の戦の時吾が父武則が助勢なくしては安倍の叛賊を追討する事が出来ない沙汰であったでしょう。其大恩の武則が息子の俺が生き残っておるのが一人であるのに向かって刃向かうとは恩を仇で返すとは情け知らずの大馬鹿者の汝義家のもの知らず恩知らず奴と云う筋のものであったが、義家果たして烈火の如くに怒ったのであったがそうだからとて又うかうかと武衡如き者の誘いの手に乗せられているような者ではなかったので武衡も手の施し様が無くかえって自分の方が心焦ら焦らしておるばかりであったのだ。
或日の事であった義家が本陣の軍門を訪ねて受付の軍兵に向かって八幡殿の御内に高木新三郎家経様の御陣営を教えて頂きたいと云うのであった品の好い四十余りの女性で二十位の若い男子を供に従えたのであった。之即ち桂江と半三郎経春の二人であった事は云うまでもないことである。桂江此度八幡殿が陸奥守に赴任して多賀城に下向して来られたが偶々今度の合戦でしかも現在当国出羽に御出陣なされてなかなかの御難戦であると云う噂も風のたよりに聞こえるので定めし夫の家経様も殿に従い奉って来ておられるでありましょうと思ったので、これから行って夫に面会の上久さかた振りの積もる話をした上に八幡殿に御目通りをして亡き姫が最後の様子から御遺言の事迄を言上しらんとした陣中見舞いであったのだ。
卯の花姫物語 6-② 桂江母子、義家と再会す
2013.01.23:orada:[『卯の花姫物語』 第6巻]
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