清原氏其後の興亡史
先年前九年役戦後の論行に際して頼義が朝廷に奏請したのに、勲功随一の殊勲者としてやったので、清原武則が鎮守府将軍に任ぜられて、奥羽両州の覇者となって其の一門は、繁栄を極めたことは既述の通りである。
処がそればかりではなく、先きに衣川城落城の時、城中に囲っていた千人の美人の女がいたのを生け捕りにしたのを、有功の将士え当座の御賞賜として分ち与えたと云うことである。
今、世の人からそんら非人道極まることと思うのであるが、其当時は最も都合の良い戦利品として取り扱って別に不思議と思わないのは全く事実であったから驚くの外ないのである。
以上のようなものであったので勢い其中で第一番の良い女を、一番の戦功者に与えるのは当然の事として行われたのである。戦功第一の清原武則が貰った千人の中で一番の美人として選ばれた女は何者であったかと云う、と賊将の一人で藤原経清が妻で男の子が一人いた女であったのだ。経清が美人を選んでずっと年の違った若い女を後妻にして男の子を生んで清丸と名付けて寵愛を捧げておった女であった。丁度桂江は少し年長の年輩であったが、まま母に該当の人で清丸は異母弟で後の鎮守府将軍藤原清衞の前身である。
以上のような関係のある美人の若妻を貰った清原武則は、其時既に齢い八十に近い老将であったから世間を恥じて其のままそっくり 男武貞が妻に命じたのである。処が其女が武貞が妻になった二年目に男の子を生んだのである。これは清丸には異父弟で後の家衞はこれである。
こうして繁昌を極めた清原一門も間もなくして武則は老死した。武則死後の清原氏は二代三代と武貞、実衞に至る三代二十年の間鎮守府将軍を相続して繁昌であった。が、家庭に余りにも複雑で、兎角く一門の和をかいて、内訌に内訌を重ねておった。この終末が遂々、奥州『後三年役』となって表現したと見るのが当たっておるのでありましょう。
後三年役の戦は、初めから朝廷にそむいた其反人が出たから起こった戦と云うものではないのである。其動機などは本当につまらない小さい事で、常に一門の不和内訌さえなかったなら戦になどはならないで済むような事からであったのだ。
卯の花姫物語 5-⑦ 清原氏其ノ後の興亡史
2013.01.23:orada:[『卯の花姫物語』 第5巻]
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