古寺山中の2
桂江は、覚念が無体の恋慕の要求にせっぱづまって、一旦十日の猶予を約束して危難を逃れたが、その後をどうしようと考えると恐ろしい思いがする。
吾身一人とも違って、今となっては吾等主従は世を忍ぶ匿れ人の境涯である。それに加えて、一朝自分がへたをやったら大恩受けた御上人様が御身に、ご迷惑がかかる事が生ずるのである。
愈々覚念が毒牙が身に迫って、家経様に申し訳が立たない様な瀬戸際まで押し込められた其のときは、一死を以てこたえるばかりと覚悟を極めておったのである。頭脳鋭い姫は、昨今に於ける桂江が挙動によって、覚念が様子と合わせて桂江が主人をがばって一人で苦しんでおるのをすっかり判っていた。姫は桂江が可哀想でたえられなかった。或るとき、桂江に向かって辛いだろうがどうか頑張ってくれと云う自分も涙を流して泣いたのである。
そうした憂き思いで暮らしておるうちに早康平六年も五月上旬となったのである。
大忍坊に一時喜ばせの十日間の日限などがとうに過ぎて終わったのである。日限が過ぎたからとて、やたらな事は出来るものではない。十日間の日限と云うても、二人がそっくり出会う機会のない限りは、彼が毒牙通りの実行が出来るものではない。彼は其の機会ばかりを鷹が小鳥を狙うようにして気を焦らだたせて狙っておる始末。
処がある日、桂江は他の女衆同僚三人で気晴らし乍ら、裏山へ山菜採りに出掛けて行った。始めの内は三人一緒に採っておったが、遂に分かれ分かれになって一人になった。はてと気が付いてあたりを見回したら、そこの側に一と群ら茂った薮蔭げに六尺余りの大の男がにやにや笑って立っていたのは別人でない。逃れに逃れ通して漸く之迄で無事でこられた覚念であったのだ。
びっくり仰天したのは桂江であった。あれ貴方は覚念様、と思わず口走ってしまった。にやりと一つ笑った覚念は、正しく拙者は覚念様だが、それはどうしたとおっしゃるので御座いますのだ。まさかあのお約束が嘘であったと云う気では御座るまいなぁ・・。俺が方では待ち遠うて遠うて仕様がない程お待ち申しておりやした。今日と云う今日こそは、先達の日延べの日限果して貰いましょうよと。
卯の花姫物語 3-⑤ 桂江に覚念迫る
2013.01.05:orada:[『卯の花姫物語』 第3巻 ]
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