河崎の棚の初戦官軍大敗
敵の兵力が日をおって増強するの報が次々と忍びの者から伝えられてくる。大将頼義憤然として出陣の決意をした。再任の勅許が届かぬとて国府に在任しておる限りは官軍たるは当然である。大敵たりとも恐れず小敵たりとも侮らず兵家の極意とするものである。敵の勢い益々増大するを手を空なしうして看過を免るさぬ事である。味方の軍勢少数なりとも戦いの勝敗は大将の剛臆によって決するものである。一挙にして衣川の本拠を居って賊徒を悉く誅 して終まえ。と云う命令の許に精兵すごって一千八百余騎、敵の本拠衣川に向かってまっしぐらに進軍した。貞任方においては衣川の前衛として阿騎の棚と云う所に主力を終結して今やおそしと待ち構えておった所に打つつかったので真っ向からの正面衛突で非常な厳しい主力戦となって展開されたのである。(注 いつもおことわりの様に戦争のことは卯花姫物語りによくよく直結した部分の戦さで、そのうちでも始まる動機や結果のみとして戦闘中の様相等は省略することをおことわり致します)
この戦いの結果り概要だけを書いてみればこうである。
天喜五年十一月二十九日に始まって十二月三日にいたる四日間の激戦で数倍の大敵と猛吹雪の中においての苦戦、味方全滅の大敗、殆ど頼家、義家が主従僅か六騎と成ってようやく敵の重囲を破って逃た得たと云う結果を招いたのであった。
然し乍らこの戦いで姫が命をかけて恋慕しておった八幡太郎義家は年二十才の初戦であった。この様な惨敗の中においての戦いにも全く武将として天凛の名将であると云うことを敵味方を問わず立証しないではいられない戦さぶりを発揮したと云われたのであったと云う。
先に戻って戦闘末期の頼義父子が敗戦逃避の様相は惨たる中にも義家が勇戦力闘はまた目覚ましいものであった。全く部隊行動を失って終わった味方は散り散りばらばらになって逃げた。打たるるに者谷を下って走る者、峰を越えて逃げる者、頼義父子も一旦はぐれて見失っておったが、義家父が安否を気遣い探して一緒になって父子二人従者四人の主従六人で逃げた敵の追跡益々急。
義家六人の矢を く一手に集めて自ら殿りに止って群がり追いくる敵兵を矢つぎ早手の猛射でばたばたと射倒してはまた味方を追うて走り、また止まって殿り乍ら谷を下って走った。
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