HOME > 記事一覧

卯の花姫物語 27 送り橋村の山越え

送り橋村の山越え
 桂江は覚念が国府に訴人するのをおさえて措くには色仕掛けでおさえるよりないと考えて、今までの苦心して来たのは一朝にして水泡に帰して終わった。
 覚念の方でも彼女は始めから誠意のないのを俺に国府に訴人されるのを防ぐ為ばかりに仮に承知したと云う手管で騙していたのであったと悟ったから、今迄の様な手緩い事をしておっては彼女をせしめることはだめだと考えた。其上あの様な色しくぢりをして面皮をかかれた上は、もう其山なも居たたまられない気もする。一層慈の山抜けをして徐ろに方策をめぐらすにしかずと考えたので、日頃同類の悪僧共を従えて夜に紛れて下山をしてしまったのである。
 事己に うした事態となっては姫が主従も益々身辺危うしと云う状態である憂慮の胸に閉ざされて悶々の裡に日を送っている。それに加えて其五月の月は頼義父子が 々多賀城を去って京に引き上げの予定の月であるのを知っていた。
 源氏がいなくなって奥州二州が く清原氏の官僚の治下となっては危険其上ないと感じた。姫は一時も早く手紙で身のふり方を義家が指示を仰がんと考えた。いつもの様に桂江に使いの役を命じたのである。桂江道中に気をつけてどうか無事に帰って来てくれよと云うた桂江 つて必ず首尾よく御役目果たして参りますと云うて、旅装束も厳重にして古寺を下って来た。
 最上川を舟越えで宮宿に来た。送橋村から山越えで其晩は山辺村に泊まる予定でやって来た。
 その山越えの真中頃にさしかかった処であった。狭い山道の両側に七八人の男衆が笠を真深かにかぶって頭を下げてかがんでいた。桂江は気味の悪い人達と思ったが気を付け乍ら通り抜けて行かんとした。程よい処迄で行った時に其中から六尺余りの大男がすくっと立ち上がって正面に両手を広げて道を塞いだ。
 大音声にあ・・いや御女中暫く待てと留めた。桂江大いに驚いたが女乍らも気丈者ひらりと一足後とに下がって、見知らぬ旅の人に無礼の振舞、私は急ぎの用件で通る者速かにそこ通されよと呼り乍ら八方に気を配って身構えた。
2012.08.04:orada:コメント(0)

卯の花姫物語 26 古寺山中の③

古寺山中の三
 たたみかけて要求の実行を迫られた桂江は、約束をしたのは事実でもあって見れば云う可きすべがない進退慈に極まった。返答に困った桂江は又も日延べを願ったのだ。覚念からからと笑ってやい先達っては俺が妻になる事に承知であるが月の経わりであるから十日待ってくれと云うから仕方がないと思って免るしたが、又も日延べを願うとは御前が月の経わりは千年万年もつづくのか、今日と云う今日こそは又もその手に騙けてはおるものか。一旦女房になると承知した上に実行延期の日延も過ぎて終わった今日である。正しく御前には亭主である夫が妻をどうしようと何が不思議であるものだそこの道理が判らないか、そんな事をも知らないなら手をかけて教えてやるとやにわにむんずと手を捕った。
 桂江も絶体絶命の場合である。守り刀を抜いて死んでしまおうかとも思ったが、一旦慈を逃げて行ってその場の様子を主人に報告した上に吾が身の為に事の破れを生じた責任を負うて自殺して責めを果たさんと思ったからやおら捕らえられた手を振りもぎった。流石は奥州一の女丈夫の美人と云われた桂江はただの名ばかりの女丈夫と違って実力を持っての女丈夫であったから、そうなってからは勇気百倍になったのである。又もかかってきた覚念が六尺の大男を跳ね飛ばしたと見る間も早く脱兎の様な早さに走って寺に帰って右の一件 くを姫に報告したのである。
 桂江重ねて其の様な破綻を出して主君を窮地に陥らせたのは皆我が身の為に生じた事件である。其責任は一死を以て果たしますと云うて己に守り刀に手を掛けんとしたので、姫は慌てて押し止どめこれや桂江決して間違ってはくれるな、たとえ之が為めに事の破れとなって国府の軍勢押し寄せ来るとも之必ず御身一人の為めとは云う可き道理ではない、之皆天なり命なりと云うものである。御身に先立たれては生きて甲斐なき吾身である。そちが俺が云う事をきかずに死ねば我身も直ぐに後とを遂うて死にますぞと云われて、桂江漸く主人を死なしていられないと気づいて死を思い止またのであったのだ。それはそうで一応済んで治まったが治まらないのは大忍坊覚念の方である。全くの交渉破裂の状態となって終わったのである。
2012.08.04:orada:コメント(0)

卯の花姫物語 25 古寺山中の②

古寺山中の二
 桂江覚念が無体の恋慕の要求にせっぱづまって、一旦十日の猶予を約束して危難を逃れたが、その後をどうしようと考えると恐ろしい思いがする。
 吾身一人とも違って今となっては吾等主従は世を忍ぶ匿れ人の境涯である。それに加えて一朝自分がへたをやったら大恩受けた御上人様が御身にご迷惑がかかる事が生ずるのである。
  々覚念が毒牙が身に迫って家経様に申し訳が立たない様な瀬戸際まで押し込められた其のときは、一死を以てこたえるばかりと覚悟を極めておったのである。頭脳鋭い姫は、昨今に於ける桂江が挙動によって覚念が様子と合わせて桂江が主人をがばって一人で苦しんでおるのをすっかり判っていた。姫は桂江が可哀想でたえられなかった。或るとき、桂江に向かって辛いだろうがどうか頑張ってくれと云う自分も涙を流して泣いたのである。
 そうした憂き思いで暮らしておるうちに早康平六年も五月上旬となったのである。
 大忍坊に一時喜ばせの十日間の日限などがとうに過ぎて終わったのである。日限が過ぎたからとてやたらな事は出来るものではない。十日間の日限と云うても二人がそっくり出会う機会のない限りは彼が毒牙通りの実行が出来るものではない。彼は其の機会ばかりを鷹が小鳥を狙うようにして気を焦らだたせて狙っておる始末。
 処がある日桂江は他の女衆同僚三人で気晴らし乍ら裏山へ山菜採りに出掛けて行った。始めの内は三人一緒に採っておったが、遂に分かれ分かれになって一人になった。はてと気が付いてあたりを見回したらそこの側に一と群ら茂った薮蔭げに六尺余りの大の男がにやにや笑って立っていたのは別人でない。逃れに逃れ通して漸く之迄で無事でこられた覚念であったのだ。
 びっくり仰天したのは桂江であった。あれ貴方は覚念様と思わず口走ってしまった。にやりと一つ笑った覚念は正しく拙者は覚念様だが、それはどうしたとおっしゃるので御座いますのだ、まさかあのお約束が嘘であったと云う気では御座るまいなぁ・・ 俺が方では待ち遠うて遠うて仕様がない程お待ち申しておりやした。今日と云う今日こそは先達の日延べの日限果して貰いましょうよと。
2012.08.04:orada:コメント(0)

卯の花姫物語 24 古寺の山中  

古寺の山中
 遊郭町と云うた処でも同様である。其所の場末の所で夜の金儲けを当て込んだ売春婦の五六人もが夜鷹を張っておった場所を差して女郎町と云う名前が付けられたので、お医者も他の商売も皆その程度のものであったと考えてよいのである。
 卯花姫が囲まれておった古寺の坊舎も同様である。今でも古寺千軒と云う言葉が残っている程繁昌した所であったと云うて見た処で人家の二十か三十戸位のものが関の山であったろう。そうしてあすこは正別当の処で僧兵も何百人の兵力であったと云うが、大たいは五十人位の荒法師がいたら関の山であったろう。
 又其地方に残っておる文献に(大たい旧藩時代に書いたものらしい何等かそうした意味の云い伝いを基として書いたものと思う)拠ればどれを見ても前九年の役に安倍貞任に味方して、官軍方に不利を与えた に依て焼き打ちに打滅された上に向後千年の間御山を禁じて封じられたので、それ依頼 山の御山となつて終わったと云う意味に書かれておるが、あれは直接貞任に軍事上の味方をしたと云う意味ではないが、貞任が姫を隠してくれたので朝敵の同類と見なされたと判断するのが正しい味方であるのである。
 処が古寺の数いた坊主共の一人に大忍坊覚念と云う大胆不敵の荒法師がいたのであった。痴漢性の男で日頃の行状が治まらない坊主であった。 さいあれば夜鷹の張り場に行って酒と女にうつつを抜かしておると云う者であつた。処がどんな所にも六でもない図類が造りと云うものは出来るものである。やっぱり此山にもろくでなし仲間で大忍坊が手下に丁度よい中忍坊に小忍坊、 こ木坊にべら坊、つツかい坊に厄介坊にのつツぺら坊の様な類ぐいのいずれとしてもろくな者でない奴等がいてあつたのだ。
 姫が同勢は女ばかりの十人足らずの主従でここの坊舎に厄介になって住居いをしておると云う存在であったから、とても六でもない事件が始まらないではいられる道理はなかったのである。始めの内はじわじわと折りにふれ事にふれて近寄って来たい素振りが判ってきたが、こちらはなる可く避る様にとつとめて逃れておった。
 そこで覚念も姫が美人であるのは勿論知らない訳がないのであるが、姫と古寺の一役僧との身分違いでは余り甚だしい相違にも過ぎるので、第二の美人の家来桂江が艶色に目を付けて惚れ込んで一生懸命片想いに熱を上げていた。燃し戦争最中の間には結局戦局がどんな事になるか判らないから  な事を仕しては万一の場合に後悔を残しては大変だと云う思いの観念もあるので、惚れてはおったが余り露骨なことはしないで通してきたが、今となっては安倍方は完全に打滅されて其残党の捜索が厳重を極めている今日であると云う此の頃になっては大変である。日頃ねらっていた彼が態度はからりと変わった。桂江を狙って向かってくる彼が魔の手はまるで肉に飢えた飢虎が子羊を狙って追いかけるような露骨ぶりとなってあの手此の手で迫ってくるので、其毒爪を払いのけて身をまっとうする桂江が苦しみは又大変な事であったのだ。
 何とかして払いのけておる内に彼が毒爪は最後の手段を打ち出して迫って来たと云う事は、 うである御身がいつ迄でも俺が要求に応じないとすれば止む得ないから国府へ訴人して御身主従を国府の軍兵に召捕らせ、俺は訴人の功による御賞賜に願って妻に貰う様にするからそれがいやならお前が心一つで主人も家来も助かるのではないかと云う。のツぴきさせない手ずめの迫り方であった。
 事巳にこれ迄でに至っては絶対絶命の場合となって終わったのである。何んとしても吾等主従は忍ぶ隠れ人であると云う弱みにつけ込まれた要求であるから、自分が一身ばかりの事ではない大切なる主人の身にかかわる重大事である。すげなく跳ね付けなどしたならば大変である。どんな事態になるか判らない。  々桂江も決心を極めた。其うした要求を一応おさえておくには外の云い分けなどはどんな事を云うたとて効き目があるものではない。最後の手段は色仕掛けで騙しておくより方法がないと覚悟した。そこで一時のがれに承知をするから身体の要求だけは月の経りによつて十日の間おけ免して貰う事を約束して別れたのであった。
2012.08.04:orada:コメント(0)

卯の花姫物語 23 

当時の山嶽崇拝と御山繁昌の様相
 斑目四郎武忠は厨川落城の際、城中に囲っておいた美人が千人いたと云う噂があったので、必ず其中の一人として卯花姫もいるだろうと思って、そればかり血眼になつて八方を探したがおらなかった。生捕りの軍兵を責めて姫をどこに匿したと云うて聞いても知っている者がいないと云う有り様。いないのは当たり前の事である。絶対秘密にしていた貞任がそのまま死んで終わったから余人が知っている筈がなかったのである。
 当てが外れた彼は焦りに焦って 々の胸となって家来共になどはかり八つ当たりに当たり散らしておると云う。これまでは出羽の豪族清原武則が愛子と云う単なる者でさえもあれ程の強情者の彼は今となっては段違いの地位である。奥州両州の鎮守府将軍の最愛の末子で然かも戦勝の殊勲者であると云う地位である。
 八方に家来を放って厳重に捜索したがどうしても捜し当てる事が出来なかった。
 出羽の国朝日山の御山繁昌に付いての伝説や古文書等は其の地方にも随所に残っておるが大たい大同小異のものである。各方面の登山口即ち最上口、庄内口、置賜口、小国口、越後口、等々、其各々宿坊町が繁昌したと云う伝説は後の鉱山が繁昌したと云う説と殆ど同じ様なものである。
 以上述べた伝説の大要を記して見れば其の様なものである。何百軒もの人家が建ち並んで凡ての商店もある、寺町もある、遊郭もある、御役所もあって御仕事もあった繁昌の町になった場所跡だと云う伝説になっておる状態は何ずれの場所も殆ど同じ様なものである。
 今からそれを推察するには大たい何十分ノ一と考えれば当たらずとも外れの程度と考えてよいのである。寺町通りと云うのは宿坊町繁昌の場所だとすれば坊舎の建っておる処其場所の事が即ちそれであるが、鉱山町の場合だとすると死んだ人が出る度毎に里のお寺から和尚様をいちいち頼んでくる様な事は山では出来ないので、そこの内で少しの頭のいい気のきいた人がまあ・・・いい加減の唱い言とをして引導を渡してくれて葬って終うと言う。そこを差して寺町と云う。御仕事場と云っても、同様に悪いことをした者が出たとて一々里のお役人などを呼んで行くのは面倒臭いからそこのおもたった連中相談して重い奴は、殺して埋めて終う軽い奴はひっぱたき付けて追い払って終うと云う其一定の場所を差して御仕事場跡と云う。又そうした相談の場所を御役所跡と云うておるのである。
2012.07.21:orada:コメント(0)