奥州前九年の大戦乱の始まり
義家は今度発生した事件が個人的犯罪で。まあ・・・普通今の警察が論説程度のものだとは元より思ったのでないのは云う迄もないが、どうも対手は奥州一の大豪族後世の雄藩に均しいものと云うのでは、たとえ国司の命令であるとしても余り強硬な申し渡しをすると、どう考えてもこれは戦争と云う迄になるじゃないかと思われて仕様がなかった。戦争さえ避けられるならば国府でも十分の満足でないとしてもある程度忍んでもまあ・・仕方ないだろうと考えたのであった、
そうして治めるには一層安倍家の一門に任せて彼らが手で責任ある処にしろと云う申し渡しに命じた方が一番よろしい方法と考えたのであった。そうしたらまさか安倍家でも吾が息子を死刑にもしないだろうし、責任上無罪にもされまいし、父頼時が命令を以て貞任は 謹慎。家督は次男宗任に相続位の程度の処で事件、落着きになるだろうと思って父を めたのであったがいられなかったので遂々ああした大戦乱に迄なったとはどうしても起らで叶わぬ戦いであったと云うより外ない次第である。安倍家では貞任引き渡しを拒絶して一門をあげて焦土決戦迄での抵抗すると云う事が直ちに国府に処の者の報によって判かったので、どうしても官軍を以て追討するよりないと云う事になった。そこでいざ戦争と云う事になると頼義父子が如何に智謀に富んだ大将とも泰平時の国司の兵力は極めて僅少のものであった。将軍直属の手兵のみと云う手薄のものであった。
それに反して安倍家の方の軍勢終結は自分が国内から集めるのであるから容易なものである。
以前奥州征伐として大軍を率いて堂々と始から向かってきた時の情勢とはまるっきり反対である。頼義は早速京都へ急便を飛ばして、安倍の頼時父子の者 す、追討大将軍と陸奥守国司の再任とを朝廷に奏請してやった。一方、関東に於ける源氏の家臣へ軍勢の催促をしてやると共に北陸、東海、東山の方面へ激を飛ばしてやる戦いの準備おさおさ怠りなかったのである。
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