HOME > 変な民族学3巻 置賜の民俗学

成田駅前変な民俗学 3-②置賜の語源

 さて、「置賜」の地名が初めて記録に出てくるのは、持統天皇3年(689年)の『日本書紀』です。陸奥の国・優嗜曇郡の蝦夷が僧になりたいとの申し出を、天皇の詔により許可したと記述されています。優嗜曇は「ウキタム」、または「ウキタミ」と読ませており、承平4年(934年)頃に編纂された『和名類聚抄』では、「於伊太三(おいたみ)」の字があてられています。
 「置賜は国のまほろば」と詠まれたように、この地域は、豊かな土地であったと思われます。それは、この地に天皇領や摂関家、後白河法皇の領地(本所)であったことからも推測できるものです。置き賜う=興玉=オギタマ(伊勢の二見ケ浦には興玉神社がある。)という名前からも、当時の権力者は、条件の良い豊かな土地を自分のものにしていたと考えられるからです。
 さらにこの地方は、西東北における蝦夷と大和朝廷との境にあたり、国土防衛線の意味もあったと言われます。このことは、西東北地方における前方後円墳の分布においても、当地の南陽市に存在する稲荷森古墳の特異性からも伺うことができます。蝦夷集落を管理しなければならない最前線であったとすれば、置賜は「日置郡、置部(へきべ)」に関した名前とも考えられる。「へき部」とは、古代出雲族から出た氏族の名前であるが、その後役職名となり、「住民の戸数を調べる仕事で、税務と行政」を司る意味に使われるようになったと言われています。

成田駅前変な民俗学 3-③置賜の語源

 故吉田東伍氏は、『大日本地名辞書』で、「優嗜曇」はアイヌ語であろうと示唆しています。ウキタムはアイヌ語で、ウ(広い)-キ(葦や芦のような植物)-タミ(谷地)で、「広い葦や芦の生えている谷地」という意味です。古代の置賜地方は、沼や湿地の多い地方であったので、ウキタムと言われたのが郡名になったという説です。
 さらに、ポリネシア語から地名を読み取る研究をしている井上夢間氏は、ウキタマ・オイタミ・オキタマは、マオリ語で解釈すれば、「ウ・キタ・マ=乳房(のような山)で締め付けられた清らかな土地」の意味であるとしています。この解釈から浮かぶイメージがありませんか。
 明治の初期に日本を訪れたイギリスの女流旅行作家イザベラ・バードが、紀行文「日本奥地紀行」の中で、置賜盆地の風景を評した感動に通じるものがあると,私は感じます。女史は、『(置賜盆地は)まったく「エデンの園」である。「鋤で耕したというより鉛筆で描いたように」美しい。米、綿、とうもろこし、煙草、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、西瓜、きゅうり、柿、杏、ざくろを豊富に栽培している。実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカディア(桃源郷)である。』と記述しています。
 皆様には、このような諸説をどのように受け止められたでしょうか。故郷・置賜には悠久の浪漫があると思いませんか。そして,それが東南アジアやヨーロッパまで通じるものがあると思いませんか?あなたの故郷の語源を調べてみてください。

成田駅前変な民俗学 3-④置賜の語源

 おまけにもう一つ、山形県の母なる川・最上川にまつわる語源を教えましょう。
 一説には「もがみ」というのは、「ももかみ」というアイヌ語から来ていると言われています。「もも」というのは、「崖」を示しており、川が急に深くなっているような場所を言うのだそうです。
 長井には、「ままの上」「ままの下」という地名が残っています。この「まま」も崖のことです。最上川の両岸に発達した河岸段丘の上と下の地域を示しています。
 最上地方の「もも」が、上流の長井でどうして「まま」となったのか。それは・・・・、どうでもよいことにしましょうよ。(笑)