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図書館論戦がスタ-ト…花巻市議会一般質問初日~上田流“詭弁”が全開

  • 図書館論戦がスタ-ト…花巻市議会一般質問初日~上田流“詭弁”が全開

 

 市民の意見が二分される形で迷走を続けている「新花巻図書館」問題をめぐって、28日開会した花巻市議会3月定例会の一般質問で論戦の火ぶたが切られた。関心の高まりを反映してか、ふだんは閑散としている傍聴席には20人以上の市民が詰めかけた。この日は久保田彰孝議員(日本共産党市議団)と羽山るみ子議員(はなまき市民クラブ)ら3人がこの問題を取り上げた。「賃貸住宅付き図書館」の駅前立地という複合構想が白紙撤回されてすでに3年以上。現在に至っても先の見えない「JR」交渉について、市民の間には「もうそろそろ、政治決断すべき時ではないのか」といういら立ちの声も聞かれるようになった。

 

 「市側が立地場所の第1候補に挙げているJR花巻駅前のスポ-ツ店用地について、JR側との土地譲渡交渉はその後、進展はあるのか。旧総合花巻病院跡地への立地の可能性をどう考えているか」と久保田議員がただしたのに対し、上田東一市長と市川清志生涯学習部長は交互にこんな答弁を繰り返した。「スポ-ツ店用地とその周辺の土地を譲ってほしいという要望は伝えているが、まだ回答はない。病院跡地への立地を望む市民がいる反面、高校生や各種団体などは駅前にこだわっており、市民全体の意見集約はまだできていない。市民の意見が病院跡地に集約され、仮にJR交渉が不調に終わった場合は駅前立地を断念する可能性はある」

 

 一方、羽山議員は「そもそも高校生が駅前に求めているのは本当に図書館なのか。図書館以外の施設も含めて幅広く意見を聞くことも必要ではないか。アンケ-ト調査をする用意はないか」と高校生の駅前立地への意見集約のあり方に疑義をぶつけた。これに対し、市川部長は「図書館の立地場所については駅前と病院跡地の二か所に市民の意見が分かれており、公正な判断材料を提供する段階ではない」として、否定的な考えを示した。さらに、羽山議員が「市内高校6校を対象としたグル-プワ-クではスポ-ツ店用地を希望した生徒が93人だったのに対し、病院跡地は25人だった」とした上で、市民説明会では逆に病院跡地への立地を希望する意見が多かったことを指摘し、この“逆転”の認識について、見解を求めた。

 

 「議論がかみ合っていない。まるで高校生にとって図書館は必要ではないと主張しているみたいに聞こえてくる」―。牽強付会(けんきょうふかい)を地で行く上田流“詭弁”がまたぞろ、頭をもたげたと思った。昨年の12月定例会での“高齢者”分断発言がふいによみがえったからである。上田市長はその時、こう言ってのけた。「高齢者のためだけの図書館で良いのか。それなら今の図書館で十分。若い人は圧倒的に駅前を希望している」(2022年12月6日付当ブログ参照)―。この”暴言”をきっかけして、高校生を駅前立地の方向へ意図的に誘導しようとしているのではないかという”疑惑”が市民の間に一気にふくれあがった。いわゆる、高校生の「政治利用」である。

 

 “悪夢”は3年前にさかのぼる。2020年1月29日、上田市長は突然「住宅付き図書館」の駅前立地という“サプライズ”(青天の霹靂)を公表した。寝耳に水だった市民の多くや議会側がいっせいに反対ののろしを上げた。その怒りの根底にあるのは「図書館」問題そのものよりも実はこうした住民無視の政治姿勢にあった。困ったことに、この人はどうもそのことにまだ、気が付いていないらしいのである。そういえば、昨年9月定例会でのある議員の質問に対し「言葉尻をとらえた」と言いがかりをつけ、反問権を振りかざして“逆襲”したことを思い出した。急所を突かれた際にこうした逆襲の手口を繰り出すのが、上田流“詭弁”の作法である。この日の質疑を通じて、そのことを改めて肝に銘じた。

 

 ついでにもうひとつ、上田市長の“開き直り”の手口も紹介しておきたい。先の“暴言“について、ある議員が「看過できない重大発言だ。世代間の分断を促しかねない。取り消しを要求したい」と迫ったのに対し、上田市長はこう、のたまわったのだった。「私も現在、68歳の老齢世代。だからこそ、将来を見すえて若者を含めたあらゆる世代に開放された図書館を目指したいと思っている。表現が不適切だとしたらお詫びをしたいが、取り消す必要はない」―。”無理”が通れば、”道理”が引っ込む…これが強権支配に共通する原理である。

 

 

 

 

 

 

(写真は市長の“詭弁”答弁に食い下がる羽山議員=2月28日午後、花巻市議会議場で。インターネットの議会中継の画面から)

 

 

 

 

夢の図書館を目指して…「甲論乙駁」編(その4)~ゴ-シュたちが大集合

  • 夢の図書館を目指して…「甲論乙駁」編(その4)~ゴ-シュたちが大集合

 

 「本日の演奏は賢治さんは当然として、もうひとりの支援者である林住職に捧げます」―。東北農民管弦楽団(白取克之代表)の設立10周年記念公演はこんな異例のあいさつで始まった。同楽団の後援会長で稽古場として寺を提供してきた、花巻市在住の妙円寺住職、林正文さん(享年87)は演奏会を目前にした今月15日に急逝した。この日、合唱団員のひとりとして参加する予定だった林さんの霊前にベ-ト-ベンの「交響曲第9番」の調べが静かに広がった。

 

 東北農民管弦楽団は2013(平成25)年、白取さんの呼びかけで東北地方の農業関係者らによって、宮沢賢治のふるさと「イ-ハト-ブ花巻」で結成された。当初15人だった団員はいまでは70人以上に。専業農家や畜産農家、米穀店、農大生や卒業生、JA職員、農業関係の研究者、かつて賢治が先生だった花農生の関係者…。「家庭菜園以外の“百姓”ならどなたでも」という多彩な顔触れが舞台に大集合した。中学時代、賢治の『セロ弾きのゴ-シュ』に魅かれて、楽器を手にしたという白取さんはいま、弘前市の岩木山のふもとで有機農業を営んでいる。舞台ではハイライトの「歓喜の歌」が始まろうとしていた。

 

 「ここには合唱団を含めて、総勢150人以上の“ゴ-シュ”たちが勢ぞろいしました」―。指揮者で合唱団「じゃがいも」(山形県、2017年、イ-ハト-ブ奨励賞受賞)を主宰する鈴木義孝さんが挨拶をすると、ほぼ満席近い会場からどよめきが起こった。農民楽団の先輩格、「北海道農民管弦楽団」(2018年、イ-ハト-ブ賞受賞)を創設した牧野時夫さんも第1バイオリン(コンサ-トマスタ-)に陣取っている。賢治と林さんはきっと客席のどこかで、一緒に身を乗り出しているにちがいない。そういえば、賢治の十八番(おはこ)もベ-ト-ベンの「田園」や「運命」だったことを思い出した。

 

 「けだし音楽を図形に直すことは自由であるし、おれはそこへ花でBeethovenのFantasyを描くこともできる」(『花壇工作』)―。客席の片隅から賢治のつぶやきが聞こえたような気がした。旧総合花巻病院の中庭には賢治が「Fantasia of Beethoven」と名づけた花壇があった。移転・新築に伴うその病院跡地はいま、賢治に特化したライブラリ-の建設候補地として注目を浴びている。「イ-ハト-ブ図書館をつくる会」という市民運動も立ち上がった。この日の会場となった花巻市文化会館はかつて、賢治が教鞭を取った花巻農学校の跡地である。そしてふたたび、賢治ゆかりの土地が図書館用地として、白羽の矢が立つという巡り合わせ…

 

 「植物医師」や「ポランの広場」など賢治戯曲4部作の公演(2月18、19日の両日)に続いたこの日のゴーシュたちの大熱演、そしてさらには直木賞受賞作『銀河鉄道の父』(門井慶喜著)の映画化…。賢治没後90年の今年はご本人もてんてこ舞いの忙しさになりそうである。「おれたちはみな農民である」という序論で始まる『農民芸術概論綱要』は、「われらに要るものは銀河を包む透明な意志、巨きな力である」という結語で閉じられる―

 

 「日ハ君臨シ カガヤキハ/白金ノアメ ソソギタリ/ワレラハ黒キ ツチニ俯シ/マコトノクサノ タネマケリ」…賢治が作詞した「花巻農学校精神歌」が口をついで出た。どうかすると、口からこぼれ落ちるのがこの歌である。ブログのタイトル「ヒカリノミチ通信」もちゃっかりとこの歌からの無断借用である。その大合唱で舞台はフィナ-レを迎えた。帰路、自宅近くにある「雨ニモマケズ」詩碑に立ち寄った。「賢治さん、よろしくお願いします」と妙に殊勝になっている自分がなんだかおかしくなった。

 

 「いま世界では、ロシアとウクライナの戦争が激しさをましております。『世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない』。今こそ、賢治の精神を世界へ発信していかなければなりません。本日の東北農民管弦楽団の演奏は『心を耕す』演奏会であります。世界平和を願う演奏会だと思います」―。パンフレッの中には故林住職のあいさつ文が載っている。生涯、平和を希求し続けた林さんの文字通りの“遺書”である。

 

 

 

 

 

(写真は会場を揺るがすような「第9」の大合唱。その迫力に圧倒された=2月26日午後、花巻市文化会館で)

 

 

えっ、なぜ!!…花巻市民の死亡数が急増~忍び寄る“不気味な死”??

  • えっ、なぜ!!…花巻市民の死亡数が急増~忍び寄る“不気味な死”??

 

 「出生数が457人だったのに対し、死亡数は1、611人に上った」―。24日開会した花巻市議会3月定例会の施政方針演述の中で、上田東一市長は令和4年一年間の人口動態の数値を明らかにした。最近、私の周辺でも原因不明の“突然死”が相次ぎ、新聞の慶弔欄でも当市の死亡数が増えつつあるのではないかと懸念していただけにこの数値に正直、びっくりした。念のため、市の統計資料を調べてみると、この死亡数は記録が公開されている昭和50(1975)年以降、最多であることが分かった。

 

 当市の「人口動態の推移」によれば、前年令和3年の死亡数は1、440人で一気に171人の増になっている。少子高齢化の波の中で、それまで出生数が死亡数を上回っていた人口動態は平成12(2000)年に逆転。その後は出生数の減少に反比例するように死亡数が急増し続けている。とくに令和2(2020)年のコロナ禍をきっかけにその傾向は顕著になり、国全体の「超過死亡」(予測死を超える死亡)は年間10万人を超えたというデ-タもある。コロナ禍との因果関係は明らかだが、一方でワクチン接種による体調悪化や死因との関係に不安を抱く声も出始めている。

 

 「感染対策として予防効果が疑わしいmRNAワクチン接種の政策評価を求めることについて」―。今定例会には表題の陳情も提出されており、「市民を対象としたワクチン接種後の、接種との因果関係を否定できない全ての体調増悪の調査及び公表」―などの審査を求めている。この日の演述で上田市長は今後も国の指導を受けながら、ワクチン接種を進めることを明言した。この方針に異議を唱えるものではないが、ちなみに死亡数が千人台を超えた5年ごとの推移は―1,023人(平成12年)、1,157人(平成17年)、1,245人(平成22年)、1,278人(平成27年)、1,405人(令和2年)…

 

 「当市に特異な要因はなかったのか」―。市民の健康を守る立場にある行政として、この死亡数の急上昇について、きちんとした分析を求めたい。なお、議会初日のこの日はウクライナ戦争の勃発から丸1年。足元では市民を二分する「イ-ハト-ブ」“図書館戦争”がますます、激化しそうな雲行きである。内外ともに目を離すことはできない。

 

 

 

 

(写真は新年度に当たっての施政方針を述べる上田市長=2月24日午前、花巻市議会議場で=インタ-ネット議会中継の画面から)

 

 

 

《追記》~素直な印象

 

 「最近、家族を亡くした市民」を名乗る方から「素直な印象」というこんなコメントが届いた。「市HPにある市長演述を読みましたが、この方にとっては昨年亡くなられた1,611名の方々は社会増65名を主張するための数字に過ぎないと感じました。無感情で無機質な市政です。恐ろしいです」

 

 

 

 

 

夢の図書館を目指して…「甲論乙駁」編(その3)~喜劇の天才と喜劇王(和製チャプリン)

  • 夢の図書館を目指して…「甲論乙駁」編(その3)~喜劇の天才と喜劇王(和製チャプリン)

 

 宮沢賢治の詩「風林」(大正12年6月3日)の中に「あの青ざめた喜劇の天才『植物医師』の一役者」という一節がある。教え子たちと岩手山の夜間登山に挑戦した時の詩編で、ここに登場する「喜劇の天才」は私の親戚筋に当たる長坂俊雄(故人)である。寒さの中で「凍(こご)えるな」と教え子たちを励ます一方、一年前に病死した妹トシを悼む賢治の声が交錯する哀惜切々たる一篇である。

 

 27年前の賢治生誕100年の際、私は恩師・賢治との交流を記録に残そうとロングインタビュ-を試みた。当時、俊雄爺は88歳だったが、その語り口はまさに“喜劇役者”そのものだった。賢治が教鞭を取っていた花巻農学校(当時は稗貫農学校、“桑っこ大学”)に中途入学したのは大正11(1922)年。その天性ともいえる“茶目っ気”に注目した賢治は戯曲4部作のひとつ「植物医師」の主役に抜擢した。インチキ医者があの手この手で無知な農民をだますという「郷土喜劇」だったが、台本にはない即席(アドリブ)を演じるなどして喝采を浴びた。当時の賢治の惚れっぷりを示すエピソードが録音記録に残っている。

 

 「卒業した時、先生に『(坪内(逍遥)さんに紹介状を書いてやるから、役者にならんか』と言われてね。わしもその気になって、おやじに相談したら、『バカヤロ-。これでもわが家は武士の流れをくむ家柄だ。河原乞食みたいなことは許さん』と一喝された。家出しようにもどこを捜しても、家の中には一銭のゼニもなかった。一か月二円五十銭の授業料も滞納する始末で、先生の童話の原稿を一枚五銭で清書させてもらったり…」

 

 「植物医師」のほか、「饑餓陣営」「種山ヶ原の夜」「ポランの広場」の4部作が2月18~19日の両日、花巻市民劇場の公演としてお披露目された。100年以上の時空を隔てて主役を演じる現代のインチキ医者の姿が「喜劇の天才」・俊雄爺に重なった。ふいに、この天才役者を育てた賢治こそが「喜劇王」の和製「チャプリン」ではないかという想念が駆けめぐった。以下に喜劇の天才と喜劇王のダイアロ-グ(対話)のいくつかを当時の録音記録から再現する。「イ-ハト-ブ図書館」の中にこんな寸劇や映画、アニメ、朗読などをいつでも気軽に催すことができる「ミニシアタ-」ができたらなぁ…

 

 

 

 

●それでも学校は楽しかったな。わしの茶目も相当のもんだけど、先生はその上前をはねるんだよ。こんなことがあったな。養蚕当番で寄宿舎に泊ることになっていたある晩、先生が「これから肝試(きもだめ)しをするから、林の中の墓石にチョ-クで丸印をつけてこい」と。林に入っていくと遠くの方で、ピカッピカッと何かが光っている。「人魂(ひとだま)だ」と大声を上げてしまった。後ろの方から来た奴が今度は「幽霊が出たと」と叫ぶもんだから、見上げると杉の木のてっぺんで白いものがゆ-らゆら。もう一目散に逃げ帰った。すると、先生は「情けないやつらだ。今日は全員不合格。明朝、やり直しだ」と、こうきたわけだ。

 

●今度は養蚕室の二階の屋根から下の畑に飛び下りろ、と言うんだな。畑の土は柔らかいから、これは簡単。「今日は全員が合格だ」と先生はニコニコ笑っているわけよ。それにしても、クリスマスなんていうものがまだ盛んでなかったあの当時に、先生はどこでピカピカ点滅する豆電球を手に入れたもんなのかねえ。「幽霊」の正体は化学実験の時に着る白衣。前の日にでも杉の木に登って吊るしておいたんだろうけど、とにかく奇態な先生にはちがいなかったな。

 

●いつかこの借りを返そうと、寄宿舎のフトンのノミを手分けして集め、当直の日に先生の寝床に放してやった。ピヨン、ピヨンとはねまわるノミをつかまえるのが、これまた大変なんだ。マッチ箱にいっぱいだから、何十匹もだぞ。翌朝、先生はすました顔で「夕べはノミが多くてなかなか、寝つけなかったけど、諸君はどうだったかね」とこれっきりだ。

 

●今度こそは、とヘビを放したこともあったな。学校へ行く途中に一匹捕まえて、素知らぬ顔で放したら、教壇の方に這っていった。うまくいったなと思っていると、先生はそれをひょいとつかまえて、「あ、青大将だな。これは野ネズミなどを退治してくれる大切なヘビなんだよ」と得々と“ヘビの効用”について演説する、とまあ、こんな調子だったからね。あの先生にはやられっ放しだったなあ。

 

●ある時、授業が始まる前に何人かの生徒を指さし、「君たちは夕べもやったな。回復するまでには、相当の時間を要するんだぞ」と。今でいうマスタ-ベイション、自慰のことを先生は話したんだ、と後で分かった。わしは奥手だったから、その時は何のことかチンプンカンプンだった。宗教や病気など、結婚を断念せざるを得ない理由はいろいろあったと思う。だからこそ、先生は悩んだのではないか。凡人から見れば常軌を逸したようにみえる(先生の)振舞いも、持て余したエネルギ-を発散させるためだった、とわしには思えるんだな。

 

 

 

 

(写真はだまされた農民たちから抗議を受けるインチキ医者。農民たちは最後にはこの医者を許すことによって、“和解”が成立する=2月19午後、花巻市文化会館で)

 

 

 

 

《追記ー1》~東北農民管弦楽団を主宰する白取克之さん(53)

 

 考えられない。宮沢賢治なしの人生なんて。小学生のときに童話を読んで、とりこになった。中学生で「セロ弾きのゴーシュ」にあこがれてチェロを始め、賢治が教え子に「百姓になれ」と諭したと知り、農家になろうと決めた。大学の農学部を卒業後、研修で訪れた北海道の牧場主がバイオリンを弾いていた。農家の楽団で演奏しているという。「なんと豊かなことか」。農民に芸術の必要性を説いた、賢治の姿が浮かんだ。

 

 青森で教員になったが、農薬や化学肥料を使わない農業への思いを捨てきれず退職。33歳のとき、弘前市の岩木山のふもとを開墾し農場を開いた。夏の草刈りにも負けず、10年かけて収穫を安定させたころ、夢を思い出した。「東北に農民オ-ケストラをつくろう」。2013年、東北農民管弦楽団を設立した。拠点は賢治の生誕地の岩手県花巻市。農閑期の11月に練習を始め、2月に演奏会を開く。「田園」「新世界」など、賢治ゆかりの音楽に徹する。

 

 15人だった団員は、この10年で約70人に増えた。農業に関わる人たちだけで奏でる響きは「土のにおいがする」とたたえられる。演奏会は東北6県を一巡。7回目の今年は、26日に花巻で「第九」を披露する。「賢治も喜んでいると思います」。客席のどこかで聴いていると信じている(2月22日付「朝日新聞」ひと欄)

 

 

《追記―2》~「むのたけじ賞」が決定

 

 反戦を訴え続けたジャ-ナリスト、故むのたけじさんの精神を受け継ぐ「むのたけじ地域・民衆ジャ-ナリズム賞」の第5回受賞作品が22日発表され、在日外国人らへの差別を取り上げたドキュメンタリ-映画「ワタシタチハニンゲンダ!」が大賞に選ばれた。

 

 映画監督の高賛侑(コウチャニュウ)さん(75)=大阪府=の作品。戦前の植民地政策や戦後の在日朝鮮人の扱いを描き、入管収容施設で迫害された被害者へインタビューし、現代まで続く問題点を浮き彫りにした点が評価された。高さんは埼玉県内で開かれた記者会見で「外国人全体にひどい差別をしている日本の制度をなくしたい。海外でも上映を広げていく」と語った(2月22日付「東京新聞」)

 

<注>~むのさんは新聞の戦争責任を取り、敗戦の日の1945年8月15日に勤め先の朝日新聞社を退社。郷里の秋田県横手市で個人新聞「たいまつ」を発刊しながら、反戦・平和のメッセ-ジを発信し続けた。2012年、第22回「宮沢賢治賞・イ-ハト-ブ賞」を受賞。2016年8月、101歳で亡くなった。

 

 

夢の図書館を目指して…「甲論乙駁」編(その2)~「賢治」という両刃の剣

  • 夢の図書館を目指して…「甲論乙駁」編(その2)~「賢治」という両刃の剣

 

 「筑豊よ、日本を根底から変革するエネルギ-のルツボであれ、火床であれ」―。かつて、日本一の石炭産出地だった“筑豊”(福岡県)の片隅から発せられた、この虚空を切り裂くような叫びがこのところまるで、木霊(こだま)のように頭の中を行ったり、来たりしている。私自身の図書館の原像がこのメッセ-ジの中に凝縮されているからなのかもしれない。

 

 駆け出し記者時代の20代後半、私は「筑豊文庫」の看板を掲げた炭鉱住宅(炭住)に恐るおそる足を運んだ。当時、閉山炭住の一角にこの私設図書館を開設していたのは「偉大なるエゴイスト」とも呼ばれた記録作家の上野英信さん(1923~87年)だった。広島で被爆後、最底辺の労働者の声を聞きとろうと“圧政ヤマ”と恐れられていた零細炭坑に潜り込んだ。『追われゆく坑夫たち』、『地の底の笑い話』…。その金字塔のような記録文学の数々は私の記者生活の原点ともなった。自宅兼用の居間には十数人が囲むことができる大きなテ-ブルが置かれ、日夜、口角泡を飛ばす激論が繰り広げられていた。「まるで、梁山泊(りょうざんぱく)みたいだな…」と私は部屋の片隅に身をひそめて、この光景を眺めていた。

 

 「イ-ハト-ブ・ルネサンス」―。老残の私が今になって、こんな大げさなスロ-ガンを引っ提げて、「賢治ライブラリ-」(イ-ハト-ブ図書館)の実現を叫ぶようになったきっけは、冒頭の上野さんの絶筆にしたためられていた“火床”(ひどこ)がまだ、くすぶっているせいかもしれない。上野さんは戦時中、「満洲建国大学」に籍を置いたことがある。「日(日本)、韓(朝鮮)、満(満洲)、蒙(モンゴル)、漢(中国)」―この”五族協和”を謳った傀儡国家に設立された大学である。ある時、上野さんがさりげなく、つぶやいた。「君は岩手花巻の出身だったね。郷土の偉人、宮沢賢治の精神歌が建国大学の愛唱歌のひとつだったことは知ってるかね」(2月14日付当ブログ参照)

 

 虚を突かれた思いがした。美しい“賢治像”が一気に崩れ落ちるような気持になった。大分後になって、賢治研究家の故板谷栄城さんの著『賢治小景』の中にある伝聞を引用した一節を見つけた。「『精神歌』については忘れられない思い出がある。昭和12(1937)年に民族共和運動のため満洲(中国東北部)に渡った後、宮沢賢治研究会を作った。リ-ダ-は森荘已池さん(故人。賢治と親交があった直木賞作家で岩手出身)。日本語のわかるロシア人、満洲人、建国大学の学生らが集まって勉強した。(中略)会合の後、必ず全員で『精神歌』を歌った」―

 

 “玄米四合”改ざん事件―。賢治の代表的な詩「雨ニモマケズ」の中に「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」というくだりがある。戦後の学制改革に伴い、この詩篇を新しい中学用の教科書に採用する際、「四合」が「三合」に一時期、改ざんされるという出来事があった。敗戦による耐乏生活を強いるためのスロ-ガンに利用されたのである。さらに、『烏(からす)の北斗七星』に通底するある種の“自己犠牲”の精神性が特攻学生の遺書に書き残されているように、「賢治」という存在は時代に利用されやすいという“両刃の剣”の側面を持ち合わせていることも忘れてはなるまいと思う。

 

 「宮沢賢治・イ-ハト-ブ賞」(2017年)を受賞した歴史家の故色川大吉さんは「歴史家の見た宮沢賢治」と題した講演録の中で、こう述べている。「(賢治の作品は)花巻、岩手、イ-ハト-ヴォ、そしていきなり銀河系宇宙に飛んじゃうんですから…」―。賢治が自分の生きた「時代」とか、その時代が背負う「歴史」とかに向き合う際の手ごたえのなさ…。この感覚は私にも通じる。賢治生誕100年の時、私は自身の「賢治」観をこんな文章にまとめている。「賢治は銀河宇宙という広大無辺の世界を自分自身の『退路』として、準備したのではなかったのか」―

 

 私の「夢の図書館」は当然のことながら、賢治のこうした「負」の部分も含めた、一切合財のまるごと「賢治ライブラリ-」である。

 

 

 

 

(写真はありし日の上野さん(真ん中)。後ろの女性が妻の故晴子さん=福岡県鞍手町の「筑豊文庫」前で、インタ-ネット上に公開の写真から)