ロータス社、チョコカラメルビスケット
その中でもオリジナル・カラメルビスケットが有名ですが、冬限定のビスケットがあります。
それがチョコカラメルビスケットです。
カリカリサックサクのカラメルビスケットは海外らしい甘さだし、そこにチョコがかかってるって、、、どんだけ甘いのか?と思いましたが、ビスケット自体の甘さがいつもより控え目で、むしろチョコがかかっているからビターな味がして、シナモンの風味も香ばしくて、美味しくいただけました。
この商品は世界各国のホテル・レストラン・ディールーム・飛行機の機内などで、コーヒー、紅茶によく合う美味しいビスケットとして高い評価を受けています。
3枚入り?7袋で@630円、是非お試し下さい(^_^)v
小学3年生の小説、、、?
なぞのたたかい
石塚駿太郎 作
はじまり
ぼくは、学。小学四年生。ぼくのゆめはぼうかん家だ。
ある日の夜。ぼくがねて、二時になったくらいのときぼくは、パッと目がさめた。だれかにグィっとつかまれた。それからぼくは気をうしなってしまった。
事けん
気がついたとき、ぼくは人気の少ないロンドンの古い家にいた。うす暗いきみのわるい家に。ぼくはなわでしばられていた。
むこうにだれかいる。かいとうジャロックのけんじゅうで、ぼくは、うたれそうになっていた。
へん化
そのとき、シーカイドがたてでぼくの身をふせいでくれた。シーカイドは、人々をまもる、人間とヒーローのハーフでじょうぶな服を着ている。けんでジャロックをたおして、なわをほどき、シーカイドは風のように去っていった。
いつのまにか古い家からぼくのへやにもどっていた。
むすび
またシーカイドに会ってみたいとぼくは思った。
ぼうけん家になるために、いいぼうけんができたとぼくは思った。
でも古い家からぼくのへやにもどっていたのは、なぞのままだ。
私はスキーに連れてった(^_-)-☆
あの頃はなぜか会社単位で動くことが普通となっており、夏はテニスや海、冬はスキーとユーミンさながらの青春を謳歌していた。
で、本当に二十数年振りにスキーにいってみた。
息子が今年からスキー授業でスキー場に行くことになったためだ。
場所は懐かし栗子スキー場。
米沢は吹雪だったが、トンネルを抜けるとそこは快晴だった。
久々のリフト、久々のロッヂ、久々のゲレンデ、それはそれは懐かしい世界。
ただ一つだけ違ってることがあった。
それは、カップルが異常に少ないこと。
女子グループ、男子グループが別々に来ていわゆる、ナンバみたいなことをする場ではないということ。
またそういう時代来るんですかねぇ~(ー ー;)
写真は昔々のリフト券、わざわざ飛行機旅行で行くところが、バブルです。
「昔、貧乏だな夫って人がいたんだよ。」
「嘘だい。そんな名前あるわけないやい!」
「じゃあ、これ見てみな。」
見た息子は絶句、「いるんだね、ビンボー・ダナオ、、、」
淡路恵子が亡くなった。私はほとんどテレビを見ないのだが、ほんのちょっと前にかみさんが見ていたさんまの番組だったかに、彼女が出ていたのを思い出した。最後にスタジオを出て行くときに、若いタレントさんに手を引かれて退場をするのを見たとき、ああ、随分歳を取られたんだなと思ったのだが、、、。
基本ドラマや映画を見ないので淡路さんの作品の思い出はないのだが、数年前に伴淳三郎の映画の会にゲストで米沢にいらしたときに遭遇した縁。
淡路恵子はSKD(松竹歌劇団)の出身だから、ちょっと映画女優とは違う感じがしている。映画女優は気取ってナンボの商売だが、踊り子はいつもホンネだ。自分の肉体が資本なのだ。だから晩年でも彼女のトークの場が設定されたのだと思う。
米沢でも田舎者のバンジュンの話ではなく、のり平や森繁の話が中心だったように思う。ただそれがすごく恰好のいい義姉さんだった、という印象。
ビンボー・ダナオとの結婚、そして離婚、中村錦之介との結婚、そして離婚、山のような借金、二人の息子の死、「ドラクエは裏切らない。」と語ったいろんな人に裏切りを受けてきた淡路恵子。
次の人生は淡路恵子は厭だ、毎日みんなのご飯を作る、漁師のおかみさんになるんだと言った彼女。そうそう、淡路の母は網元の娘だったのだ。
「そして風が走り抜けて行った・ジャズピアニスト・守安祥太郎の生涯」という評伝があり、守安は独身だったのだが、淡路恵子に恋をしていたという話を受けて著者の植田紗加栄は淡路にインタビューする。
本人は守安のことを全く記憶しておらず、SKD時代お稽古のピアノの先生がいたぐらいしか憶えていなかった。
その何ともいえずからっとした乾いた空気間のある彼女が、何とも好きだった。
※写真は1956年4月の日本劇場江利チエミショウ「ジャズ娘に栄光あれ」のパンフレットより。
最後におめにかかってから、早や10年が経っちゃいました。
このパンフレットは年末うちのかみさんが店を掃除してくれたときに、どこやらから見つけ出してきてくれたものです。あの公演中ずーっともっていたに違いないものですが、なぜか折り目一つ付いていない、完全美品で発掘されました。不思議と言えば、不思議です。
立川談志が米沢にやって来る!!
その時の喜びようは何とも言えぬものがありました。まだサラリーマンだった私は、出張に絡めて東京で聴く、という方法もあったとは思うのですが、多分最早東京ではそう簡単にはチケットが手に入らぬ領域に入っていたのではないかと思われます。
この公演が終わってその年の年末、私はある病院でパラパラと週刊文春をめくっていました。堀井憲一郎の「ホリイのずんずん調査」という連載が目に留まったのです。それは今年一年間の立談志の全落語演目とその評価が一覧になっていました。堀井氏は残念ながら米沢の独演会のみ、未見であるとしてありました。
そして、この平成16年は立川談志にとって非常に出来のいい高座の多い、好調な年であったと書いてあったと思います。
その時の小噺、
あるスペインの町のレストラン、男が食べていると隣の席では大きな肉の塊で見たことのないようなものをぱくつく奴がいた。
男は給仕に「そっちの席であの方が召し上がってる料理は何と云うのかね?」
「あれは牛の金玉です。本日闘牛があったのをご存じでしょう。その時の牛のものです。」
「それは、私も食べてみたいな。どうすればいいんだい?」
「ご予約いただければ次回の闘牛の時にご用意いたします。」
といって、その男は予約をしてレストランを後にした。
次の闘牛開催の日、その男は楽しみにレストランへと向かった。
給仕に例のものをといい、待っているとそのひと皿が運ばれてきた。
運ばれてきた皿には、小さな肉の塊がちょこんと載っていた。
「おい給仕、これはどうしたんだ?前回のはもっと大きくて、もっと美味しそうだったじゃないか?」
「お客様、闘牛は牛が勝つ場合もありますから、、、、」
爆笑爆笑、大爆笑、満足そうな談志師匠の顔が目に浮かびます。