HOME > 線路は続くよ果てまでも。

昔の映画。

  • 昔の映画。
あまり映画は見ないのですが。

当時東部小学校は全校1500余名で映画を見ることがありました。
今は新しくなっていますが、西体育館に集められて、いつの頃からあるのか分からない別珍の暗幕を張り巡らし、戦前のほこりモウモウと上映するわけです。しかもよくフィルムが切れました。

演題は大概防犯とか、やはり線路際の学校のため、置石とか踏切事故のもの、鉄橋を渡ってはいけません、のたぐいが多かったと思います。
それだけではつまらないので、トム&ジェリーのようなもの15分が付いていました。3時間目から4時間目を潰してやってた感じがします。大阪志郎さんとか三益愛子さんとかが出てたのではなかったでしょうか。

置石は危ないので、近くの踏み切りで置き金が流行りました。10円、5円、1円を踏み切りの線路に置き、列車に踏ませるのです。そういうことを教えてくれる人がちゃんといるわけです。

特に意味はなく、自分の小遣いも減るのですが、2,3日は遊んだ覚えがあります。但し、それほど楽しくないためすぐブームは終わりました。

あと、この松川鉄橋を渡ったかどうかにつきましては、諸般シュトラウスの事情により言えません。

踏切番への憧憬。

  • 踏切番への憧憬。
今でももしかすると首都圏にはあるかもしれない踏切番。
たまにニュースで開かずの踏切を規定外に踏切番の人が親切心で開いて、事故になるケースが報告されます。首都圏、関西などの飛ばす私鉄では、もはや人間では制御不能なのかもしれません。

それから見ると、今はなき米沢駅南の末広町踏切はのんびりした踏み切りで、今の黄色と黒に塗られたバーが両側から降りてくるものではなく、道の両側に固定した棒があり、それに針金が渡してあって針金に黄色と黒の斜線で描いたひらひらの鉄板(?)が6~7枚付いていて、これが手動で上下します。末広町の北側に小屋があり、そこに踏切番のおじさんがワイヤーをぐるぐる回しているわけです。バレーのコートを作る時に、真ん中の網を張る作業に似ている感じがします。

この商売については、かなりなりたいものの一つでした。今考えると危険と隣り合わせの職業ですが、何となく楽そうな楽しそうな雰囲気が子供心をくすぐったものです。あの頃の駅は深夜の貨物列車の入れ替えや夜行列車など、また米沢は除雪などもあるのでいつも煌々とカクテル光線が塔から降り注がれて、なにか特殊な雰囲気を漂わせていました。
受験勉強と称して、深夜に起きていると鉄道の音が大きく聞こえる日があり、歩いて5分の旧13号線陸橋から駅を眺めたりもしました。

それと似たように、現在の町の広場に市役所があった時、今の文化会館の南側に火の見櫓があり人が双眼鏡を持っていつもぐるぐる回っていました。これもなりたい職業の一つでした。歩いて回っているのだと思いますが、なにか機械的な感じのする動きであの辺を通る時は目が釘付けになっていました。

そんな仕事をしていた方に、いろいろな話を聞いてみたらさぞかし楽しいのでは、と思ったりします。

写真は福田町から吾妻町の間の在家踏切から松川鉄橋方面を望んだところです。
白い枝垂桜と紅桜がいいコントラストで咲いています。鉄道が通ってときに植えられたのでしょうか。米坂線の歴史をずっと見守っているに違いありません。