某所より米沢駅が改築された時の記念写真を購入しました。
私の父方の祖父も鉄道員だったので写っているものと思われます。
後ろの駅舎はその後屋根などの改造はありましたが、新幹線が走るまではこの駅でした。
右側にある便所がまた汚くて、、、。
それはそうと、昭和5年の大改築の前に駅が新たに建設された形跡がありません。
多分2度の大火でも駅は焼けたという記述はなかったように思います。
ということは、明治32年の駅舎を新幹線が走るまで使っていたことになります。
写真屋は新庄の写真館、額縁屋は地元米沢片町の石川額縁製作所です。
HOME > 線路は続くよ果てまでも。
昭和5年1月20日米沢駅頭にて
2010.01.27:mameichi:コメント(0):[線路は続くよ果てまでも。]
久々の講演依頼。
来る来年の1月9日に火種塾という旧鉄砲屋町の我妻栄記念館で行われている催しに呼ばれ、3年ぶりに講演することになりました。
演目は「幻の馬車鉄道と高野義雄」となりました。まあネタは私の場合この馬車鉄道だけです。1時間ほどを依頼されています。
この鉄道は豊川炭鉱馬車鉄道といい、米沢駅から赤湯まで走っていました。なぜか詳細な鉄道研究の資料にも載っていないため、細かいことは分かりません。
但し間違いなく、明治32年のごく短期間、旅客営業を間違いなくやっていました。
仮営業でなく本営業です。そして開業式も盛大に行っているので、これからそういう全国版の資料にも掲載されるように運動をしていきたく思っています。
尚写真の馬車は復刻された入間馬車鉄道の1分の1レプリカです。埼玉県狭山市立博物館で許可を得て撮影させていただきました。
現在国内で稼動しているのは、札幌の北海道開拓の村と岩手の小岩井農場です。この車両も復刻したものです。
実際の車両が現存しているのは、石川県加賀市で山中馬車鉄道で使用されていたものです。2両保存されており船大工が作ったものとのことです。
残念ながら米沢の馬車鉄道の1次資料はまだ未見です。
法務局にあった登記簿の謄本が今のところ唯一のものです。
写真か株券でも出てくると面白いのですが。
演目は「幻の馬車鉄道と高野義雄」となりました。まあネタは私の場合この馬車鉄道だけです。1時間ほどを依頼されています。
この鉄道は豊川炭鉱馬車鉄道といい、米沢駅から赤湯まで走っていました。なぜか詳細な鉄道研究の資料にも載っていないため、細かいことは分かりません。
但し間違いなく、明治32年のごく短期間、旅客営業を間違いなくやっていました。
仮営業でなく本営業です。そして開業式も盛大に行っているので、これからそういう全国版の資料にも掲載されるように運動をしていきたく思っています。
尚写真の馬車は復刻された入間馬車鉄道の1分の1レプリカです。埼玉県狭山市立博物館で許可を得て撮影させていただきました。
現在国内で稼動しているのは、札幌の北海道開拓の村と岩手の小岩井農場です。この車両も復刻したものです。
実際の車両が現存しているのは、石川県加賀市で山中馬車鉄道で使用されていたものです。2両保存されており船大工が作ったものとのことです。
残念ながら米沢の馬車鉄道の1次資料はまだ未見です。
法務局にあった登記簿の謄本が今のところ唯一のものです。
写真か株券でも出てくると面白いのですが。
2009.12.29:mameichi:コメント(0):[線路は続くよ果てまでも。]
ここはどこ?
何度かここに書いていますが、豊川炭鉱馬車鉄道という鉄道を調べて早3年、ここの場所がこの鉄道のターニングポイントとなった場所です。
一寸分かりづらいのですが、旧13号線と奥羽本線との交差地点です。
明治32年にここの踏切を越えられなかったために(実際は一回越えていますが、、、)全ての計画がおじゃんになってしまったのです。
鉄道と鉄道が交差する、方法はいくつかあります。
現在ではほとんどが立体交差となっています。
その昔は平面交差というものもありましたが、勿論危険も伴うため今僅かだと思います。
岩手の--軌道(ちょっと分かりません。)は一回線路が切れて東北本線の上を車輪ごと越えて、また線路に乗っかるということをしていたそうです。
佐賀県にあった祐徳軌道は長崎本線と平面交差をしていました。
その点ここの旧大橋踏切(南陽市大橋)は平面交差を許されなかったようです。
じゃあなぜ特許したのか、不思議です。
一寸分かりづらいのですが、旧13号線と奥羽本線との交差地点です。
明治32年にここの踏切を越えられなかったために(実際は一回越えていますが、、、)全ての計画がおじゃんになってしまったのです。
鉄道と鉄道が交差する、方法はいくつかあります。
現在ではほとんどが立体交差となっています。
その昔は平面交差というものもありましたが、勿論危険も伴うため今僅かだと思います。
岩手の--軌道(ちょっと分かりません。)は一回線路が切れて東北本線の上を車輪ごと越えて、また線路に乗っかるということをしていたそうです。
佐賀県にあった祐徳軌道は長崎本線と平面交差をしていました。
その点ここの旧大橋踏切(南陽市大橋)は平面交差を許されなかったようです。
じゃあなぜ特許したのか、不思議です。
2009.11.08:mameichi:コメント(0):[線路は続くよ果てまでも。]
豊川炭鉱馬車鉄道再び!
ここ数年気になっているのは、この鉄道のことです。
最近新潮社から「日本鉄道旅行地図帳」という便利な本が出たらしいのです。残念ながら最近本屋に行かないので、まだ未見です。廃止された旅客鉄道の前線全駅が掲載されているのが謳い文句なのですが、豊川~は掲載されているのでしょうか。多分されていないということで、ここは話を進めます。
豊川炭鉱馬車鉄道は明治32年7月25日米沢停車場より糠野目まで開通、その後9月16日に開業式を行い12月8日に赤湯まで開通した馬車鉄道です。しかも年内に積雪のため運休、翌年諸般の事情により再開せずに廃止に追い込まれた不運な鉄道なのです。
ちなみに豊川炭鉱は現在の飯豊町手ノ子辺りにあった炭鉱のことをさし、飯豊町に合併する前は豊川村でした。始めはこの炭鉱の鉱石を米沢に運搬する目的で企画した鉄道だったのですが、、、
今から3年前、冬になりバンド活動も暇になったので、子供の頃米沢大年表で見た馬車鉄道のことを調べ始めました。ネットというのは便利なものでその頃の申請書類のリストなども検索できるようになっています。しかし残念ながら上記鉄道は載っておらず、社長をしていた川西町皇太神社の蔵田家に確認したところその筋の資料は今はないとのことでした。以前その調査をした川西町元フレンドリープラザ館長、故竹田又右衛門氏に取り次いでもらったところ、その話を川西町の文化財保護協会の総会のときにしゃべってくれということになりました。
そういうことは勿論初めてなので躊躇しましたが、やらせていただきました。そのことで何か分かることがあれば、是非ご連絡を頂戴したいと思います。
写真は晴れた日の米坂線風景です。
最近新潮社から「日本鉄道旅行地図帳」という便利な本が出たらしいのです。残念ながら最近本屋に行かないので、まだ未見です。廃止された旅客鉄道の前線全駅が掲載されているのが謳い文句なのですが、豊川~は掲載されているのでしょうか。多分されていないということで、ここは話を進めます。
豊川炭鉱馬車鉄道は明治32年7月25日米沢停車場より糠野目まで開通、その後9月16日に開業式を行い12月8日に赤湯まで開通した馬車鉄道です。しかも年内に積雪のため運休、翌年諸般の事情により再開せずに廃止に追い込まれた不運な鉄道なのです。
ちなみに豊川炭鉱は現在の飯豊町手ノ子辺りにあった炭鉱のことをさし、飯豊町に合併する前は豊川村でした。始めはこの炭鉱の鉱石を米沢に運搬する目的で企画した鉄道だったのですが、、、
今から3年前、冬になりバンド活動も暇になったので、子供の頃米沢大年表で見た馬車鉄道のことを調べ始めました。ネットというのは便利なものでその頃の申請書類のリストなども検索できるようになっています。しかし残念ながら上記鉄道は載っておらず、社長をしていた川西町皇太神社の蔵田家に確認したところその筋の資料は今はないとのことでした。以前その調査をした川西町元フレンドリープラザ館長、故竹田又右衛門氏に取り次いでもらったところ、その話を川西町の文化財保護協会の総会のときにしゃべってくれということになりました。
そういうことは勿論初めてなので躊躇しましたが、やらせていただきました。そのことで何か分かることがあれば、是非ご連絡を頂戴したいと思います。
写真は晴れた日の米坂線風景です。
2009.07.01:mameichi:コメント(0):[線路は続くよ果てまでも。]
今日の坂線
丁度豆いちに向かう途中、汽車が走っていくところに当たることがあります。今日は鉄橋のところで待って撮ってみました。もうすこし寄せて撮らなければならないのでしょう。南駅が8:41発で米沢着が8:45です。意外と速いのですね。
今も米坂線は「坂線」と呼ばれているのでしょうか。奥羽本線は「本線」、米沢駅は「本駅」或いは「東駅」とも呼んでいました、高校時代は。
今も米坂線は「坂線」と呼ばれているのでしょうか。奥羽本線は「本線」、米沢駅は「本駅」或いは「東駅」とも呼んでいました、高校時代は。
2009.05.15:mameichi:コメント(0):[線路は続くよ果てまでも。]