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蔵田国治さんに会いに行って来ました。

  • 蔵田国治さんに会いに行って来ました。
  • 蔵田国治さんに会いに行って来ました。
川西町上小松から米沢駅まで鉄道を通そうとした人がいました。
丁度福島米沢間が開通した明治32年のことです。その名も豊川炭鉱馬車鉄道、現在の飯豊町高峰から産する亜炭を小松に出して、それを米沢まで運ぶ馬車鉄道を計画したのでした。夢は小松を常磐炭鉱のような一大集散地にすることでした。
諸般の事情によりこの計画は頓挫してしまうのですが、今日この会社の社長をやられた蔵田さんの御宅にお邪魔してきました。

蔵田家は小松皇太神社の宮司しておられ、当代の蔵田国順さんと奥様にお話しを伺ったのです。いろいろお世話になりありがとうございました。

そして社長だった蔵田国治さんの写真と、豊川炭鉱馬車鉄道株式会社の仮株券を拝見させて頂きました。
いろいろなお話しを伺いながら、今から110年前の幻の大事業に想いを馳せたのは言うまでもありません。

調べ始めてここに来るまで、8年の歳月が過ぎてしまいました。

3年ぶりのお客様と1冊の本

  • 3年ぶりのお客様と1冊の本
米沢もようやく観光シーズンを迎え、県外からのお客様もちらほらおいでいただいているようです。

今日のお客様の中に「3年ぶりです。」という盛岡からのご夫妻と娘さんご夫妻の4人組がいらっしゃいました。
最初はどなたかわからなかったのですが、「あの共産党大会のー、、、」と言われてすぐ思い出しました。
そのご主人が五色温泉でその昔共産党大会が行われたと聞いたが、誰に話しても知らないというのでとのことでした。
「米沢百年」という写真集の中に確かその時の新聞のコピーがあった筈だと捜しておみせしたら、「やっぱり五色温泉でやってたんだ。」とお喜びになり珈琲をお買い上げいただいたのでした。


今日は、昔米沢は駅から川まで桜並木があったんですよ、なんていう話から絵葉書を見ていただいていたら、「板谷峠のSLの写真はありませんか。」とおっしゃるので、写真の「奥羽本線福島・米沢間慨史」をお見せしました。
かなり鉄道には詳しい方で、板谷峠を走っていたE10を米子駅で見たことがある、という話をされていました。
ここには何でもありますね、なんて言われましたが、たまたま趣味が似てるだけでしょうといって、また珈琲をお買い上げいただきお別れしました。

商売一期一会ですが、このような出会いは個人商店冥利に尽きると嬉しくなる再会でした。

新資料発見。

  • 新資料発見。
先日置賜日報社の成澤社長より「伊勢神宮御師蔵田一族の歴史:蔵田国順氏著」という本を頂戴しました。
以前より調べていた豊川炭鉱馬車鉄道の資料を提供させていただいたためです。
そしてこの中に出てくる蔵田国治がその会社の社長だったのです。

著者の蔵田国順氏は現在小松皇太神社の宮司で、当代より3代前が国治となります。
何度か米沢日報の連載していたときもも読ませていただいたのですが、今回新たに2つのことが分かりました。

1つは国治が警部をしていたことです。神主のほかに明治11年から県の書記などをやり、その後明治12年1年ほどではあるが警察官をしていたのです。
豊川炭鉱馬車鉄道専務の高野義雄も警察官をしていた時期があるのです。
手元に資料がないので分かりませんが、何かかかわり合いがあったかもしれません。

もう一つは国治の兄信が東京府南足立郡長をしていたことです。そしてその信が郡長をしているときに、エリア内に千住馬車鉄道が開通したのでした。当初この鉄道はすこぶる好調な成績を上げていた時期であり、そのとき信は内務省より非職を命じられ、翌27年1月26日に依願免官となり小松に帰りました。

そして信は28年8月8日小松で逝去しています。郡長をしていた信は千住馬車鉄道に許可を与える方だったと思われ、国治に何かアドバイスをしていたのではないでしょうか。
米沢日報に小松の有志によって鉄道馬車の計画が掲載されるのは、それから2年余りあとのことです。

それにしても、何か発信すれば少しづつ見えてくることもあるものだと妙に感心しました。

明治32年の火事について考える。

  • 明治32年の火事について考える。
この火事は4月28日免許町の材木店から出火、今町、東寺町を焼き払い橋を越え上花沢に移り、佐氏泉停車場(=開業前の米沢駅)も燃えたことになっています、29日の米澤新聞では。

5月2日の新聞では、駅が焼けたことは書かれていません。多分焼けなかったのでしょう。
全焼336戸、半焼1戸、小屋籾倉等499戸、土蔵3棟焼失、寺院は桶屋町大正寺、東寺町竜泉時、西生寺、観音寺、免許町海王院、大日堂、観音堂、太子堂、信濃町大日堂、久保町虚空蔵堂など、と書かれてあります。
随分焼けたものです。

大正6年、8年の大火は今もよく語られますが、このときの火事はちょっと実態が摑めません。
私の曽祖父の七郎という人が近火見舞御礼を新聞に出しています。

丁度このとき粡町では上杉神社祭礼の呼び物として、花魁行列をやっています。
そして5月15日に待望の奥羽線福島-米沢間が開通します。

そして、この年の開通した米沢-赤湯間の鉄道馬車の写真を探しています。
何かそれらしい古い写真をお持ちの方、ご一報を豆いちまで。
写真は入間馬車鉄道のレプリカです。こんな感じのものが米沢の路上を走っていたものと思われます。

重大事故の生写真が

  • 重大事故の生写真が
送られてきました。
オークションに4枚出ていたのですが、見る見る間に金額が上がっていき、かろうじで一枚だけゲットできました。

それにしても鮮明な写真ではありませんか。

発生日時:明治42/1909年6月12日  午後7時40分
発生場所:奥羽線 赤岩信号処構内
関係列車:混第725列車
編成:現車19両(荷物車+3等車+2・3等合造車+貨車15両+有蓋救援車)
機関車:本務機関車№804(9204号)後部補助機関車№848(9245号)
概況:本列車赤岩信号処を発車し、第13号(環金)隧道付近に差し掛かるや、列車過重のため空転を惹き起こし、隧道に至るや空転頻発し遂に後部補助機関車の機関手機関助手は蒸気及び煤煙のため窒息昏倒せり。異常に気付きし本務機関車の機関手は直ちに非常停止手配を取りたるも、効無く数回の反動により停止すると同時に逆行を開始し、赤岩信号処構内に突進して後部補助機関車脱線以下折り重なり転覆粉砕せり。
死傷者:旅客1名死亡、27名負傷、職員3名即死同3名負傷
原因:急勾配において機関車の操縦宜しき得ざりしに因る。