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白石城を訪ねて。

  • 白石城を訪ねて。
秋保からの帰途、高速を白石で降りて帰る途中、白石城に立ち寄りました。
一国一城の主という言葉がありますが、徳川家康が立案、秀忠が発令したもので、この白石城は伊達氏の支城として例外的に認められていました。

だから天守閣のようなものもありますが、三階櫓といって少し遠慮気味にしていたらしいです。
天守閣がなかった米沢城にも御三階というのが北東と北西にあり、同じようなものだったと考えられます。
1985年に再建された三階櫓は総工費21億円、一説に28億円ともいわれております。
石垣から再生したということで、完全復活片倉小十郎恐るべしです。

片倉小十郎は成島八幡の神主の倅らしいので、そっちにもレキジョが来ているのでしょうか。
この日登城していたのは私一人でしたが、戦国BASARAで入場者がアップしたという折れ線グラフが城内に堂々と展示されていました。
ここも地震でやられており、漆喰にひびが入ってました。

佐藤清水公園を裏から覗く。

  • 佐藤清水公園を裏から覗く。
上花沢片町を線路の方から行くと、旭町にぶつかります。旭町は鉄道が出来たときに作った道で、仲町、信濃町、小国町と次々斜めに当たって相生橋に出ます。

片町から旭町に出ると大河原牛肉店に路地があり、住之江町(これも鉄道開通時の新道)に抜けます。そこを渡りハヤシ薬局のところをまっすぐ行くと松川橋に出る道にぶつかり、そこを抜けていくと佐藤清水公園にたどり着きます。

大河原牛肉店からの細道が参道ということでしょう。多分古くからの道でしょう。昔は結構店もあった通りと聞いています。
明治末期、近くに火力発電所があったとも聞きます。蒸気機関車の残骸のような鉄の塊が、子供の頃にもあった記憶があるのでそれではなかったでしょうか。
明治32年に鉄道が開通した頃には、花都と松川という二軒の料理屋があったということです。
花都はその後新野医師が結核診療所として買い取り、その名も月見山療養所になりました。松川は料理屋から弁当屋になり現在に至ります。

写真はヨークベニマルの駐車場から見た佐藤清水公園。
子供の頃このへんの窪地は全体的に湿地帯で、沖正宗の瓶詰め工場がありました。
醸造していたのは現在くすりのカワチのところですが、窓などがなく古めかしく、妙に威圧感のある建物だった記憶があります。

この瀟洒な洋館は

  • この瀟洒な洋館は
あら町辻西の加藤眼科です。現在は誰も住まれていないようですが。
場所は北部小学校に入る歩道橋の下の家です。
ここの角に石碑があります。それには「吉田松陰投宿の地」とあります。

それによりますと、
吉田松陰は常に内外の情勢に意を注ぎ、二十三歳のとき、東北遊歴の情やみがたく、嘉永5年(1852年)3月25日長崎以来の知友であった米沢藩士高橋玄益を訪ね、諸学士と談合しようとして、この地あら町の旅篭遠藤権内方に宿をとったが、たまたま藩主斉憲が参勤交代で江戸に上る前日とあって果たせなかった。
 松陰はその後安政4年(1857年)郷里の萩(山口県)に松下村塾を開いてその地の子弟を薫陶しあまたの志士を養成した。
 松陰はその後幕政に抗して捕らえられ、雄国空しく安政6年(1859年)10月27日数え年三十歳で武蔵野の露と消えたが、彼の志をうけついだ人の多くは元勲とたたえられこれらの人によって廃藩置県は実を結び、明治維新の大業は成就し、今の日本の元が出来上がったことを思慕するのあまり、ゆかりの地に碑を建て後世に残す。

とあります。この碑が建つ前は簡単な白いペンキの角材に「投宿之地」というのがあったような気がします。そしてその昔ここに立ち食いそばの自動販売機があったように思うのですが、記憶のある方はいらっしゃいませんか。

このマシンに関しては、機械の調整も難しく、現在全国でもかなりレアな状態らしいです。確かかなり詳細なHPがあった筈です。
群馬、栃木にはまだ随分現役があるようですが、武蔵野の露と消えたものも多いかもしれません。

西條天満を歩く。

  • 西條天満を歩く。
ちょっと前まで誰でも入ることができた天神様のところにロープが張られて、立入禁止の札が上がりました。
そのちょっと前に様子を見に行った時の写真です。

情報を総合すると、ここの天神様は立町の皇太神社の天満宮に合祀されたそうです。
立町の天神様は姫路からいらっしゃった天神様で、(注1)西條家のは京都からいらっしゃった(注2)のだと思います。ずいぶん遠くから来て一緒になられたみたいです。

なので、神社の中は空っぽになり、鈴も取り払われていました。
灯籠も地震のときになったのか、危ないからなのか倒れていました。
社務所は去年だったか今年の初めだったか、解体されました。

3年ほど前のお祭りのとき、社務所で子供たちと町内の人たちが宴会をやっていました。ちょっと前なのに、何だか懐かしい光景のような気がします。
そして今日は皇太神社の祭礼です。

(注1)この天満宮は播磨の国(兵庫県)姫路の浪人、横山権六という人の守り本尊で、享保3年8月、尊体を捧持して米沢城下立町に落ち着いた。横山氏は自分の屋敷に祀っていたが、三代目権六(仏師を業としていた)は、霊験あらたかな神様を俗家に置くのはもったいないと、文化9年(1812年)秋、皇太神社の境内に納めたものである。昭和4年に立派な堂宇を建立し、末社の対面を保つようになった。
(山宮広章 置賜の史話より。)


(注2)今を去る約650年前の元寇3年(1323年)、北条高時によって島根県の壱岐に配流されていた後醍醐天皇がひそかに島を抜け出され、小舟に乗って島根県に居た忠臣名和長年のもとに逃げのびられる時、倫房は舟を操り追手を欺いて無事送り届けた。このあと天皇は建武中興を為し遂げられた。天皇はこの倫房のこのときの功を讃え菅原道真の画像を与え、信州西條の城主に任じ五満貫を与えた。それから倫房は西條を姓とし子孫はのちに上杉家に仕え、門東町に屋敷を拝領し侍組として名を成した。
西條家は菅原道真を崇拝し先祖倫房と二柱を祭神として西條天神を建立した。これが西條天満神社で学問の神様である。大火後の大正11年に再建された。
(神社の立て看板より)

色部長門追念碑

  • 色部長門追念碑
慶応四年戊辰(1868年)1月、鳥羽伏見の戦いが戊辰戦争の口火を切る。新政府軍による会津攻略が始まり、盟友会津救援のため米沢など東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結び決起する。
同年5月米沢藩は色部長門を総督として越後へ出兵。
 同年7月色部らは新潟港防備の任にあったが、陸海両面から進撃する新政府軍らの攻撃に合い、勇戦奮闘するも圧倒的に優勢な新政府軍の前に、色部は7月29日新潟関谷で壮烈な最後を遂げる。
 この戦争で、色部は新政府に敵対した米沢藩の首謀者として責任を負わされて戦後処理され、藩の危機を救った。
 昭和34年、当市市制70周年記念事業の一環として色部の武勇をたたえ、その大恩に報いるため色部長門顕彰会が追念碑建立を提唱、同年8月建立をみたものである。
 その後会の合併により米沢御堀端史跡保存会が管理を継承している。

平成13年10月吉日
米沢御堀端史跡保存会

とあります。
知ってる方は知っておられるでしょうが、知らない方は全くどこにあるのか分からないと思います。
実はNHK米沢放送局の奥というか、上杉記念館の裏の脇というか、全く目立たないところにあるのですよ。
先週伝承館の茶室をイタリアの方と一緒に見る機会があり、その時なんか大きな石碑があると思い行ったらこの色部長門のものでした。