HOME > 米沢城下に江戸を訪ねる

あそこが、こういうようなことに、、、

  • あそこが、こういうようなことに、、、
南部小学校の西側に、ついこの間までマックスヴァリュ城南店があったのはみなさんご存知のことでしょう。
ここを通る時、一冊の本を思い出します。
それは佐野眞一が2008年に著した「甘粕正彦 乱心のこう野」(こう=日遍に廣)です。

甘粕の原籍地(正彦は父親の赴任地の仙台で出生)の門東町は、江戸時代の古地図では主水町の名前で武家屋敷が並び、甘粕姓も見える。
しかし、現在そこは大型スーパーの駐車場にかわり、付近にも城下町らしい雰囲気はまったくなかった。、、、とあります。

その駐車場がここですね。確かに昔の地図にも甘粕家と書いてあります。
全く江戸時代の雰囲気がないと書いてありますたが、花岡町(西側)の方にあった庭園は多分古いものではなかったでしょうか。
クリーニングの店の後ろ側にあったところは手は入れられてはいませんでしたが、どう見ても最近いじった庭ではなく、昔っぽい雰囲気が横行していました。
見事になんにもなくなってしまいましたが、ここが甘粕近江守の地であることは間違いありません。

今町石観音堂

  • 今町石観音堂
慶長6年(1601年)上杉家が会津より移封の際、駕籠に載せて持ってきて、今町の頭(上)の石の上において休憩したところ、これをまた運ぼうとしたが動かなくなったことは大変奇異なことであった。
人を雇い大人数で動かそうとしたが、動かず、仕方なく皆に図ってすなわちここに安置して祭った。
米沢三十三観音十三番札所となる。

御詠歌 昔より たつともしらぬ いままちの くぜの ちかいあらたなりけり

と、今町町内会で建てた看板にあります。
県内では最上三十三観音がメジャーですが、置賜と庄内の三十三観音もあり、あわせて百観音参りというパターンもあるようです。

米沢三十三観音を知ったのは多分中学生の頃でした。
最初は置賜の三十三観音を巡るつもりだったのですが、余りにも範囲が広すぎて自転車回るのは無理と諦めました。
それでも小松、白鷹あたりまでは行った記憶があります。

そうしたら市内でも三十三観音があることを回っていたら気づいて、どこかで地図付きの一覧を貰い、休みの度にあちこち回っていました。
御朱印帳があり、お参りするとそれに判子を押してもらいます。中には達筆な字で何番札所、何々観音、別当何々院日付などを描いてくれるところもあります。

ある日この十三番札所今町石観音堂に参り、隣家の別当さんに行き御朱印を貰おうと「こんにちは~」といったところ、一人の少女が出てきました。
よく見ると、おんなじ学校の同じ学年の娘です。
今まで話したことはありませんでしたが、急に自分のやっていることが恥ずかしくなりました。
御朱印をいただきたい旨は話したと思いますが、多分おうちの方が留守なので今度にしてくださいと言われたのではなかったでしょうか。

今手元にその朱印帳がないのでわかりませんが、多分その家には伺わなかったと思います。またその娘がでてきても困るので。

この前を歩いて通ると、ほろ苦い思い出が蘇ります。

西のほうを歩いてみる。

  • 西のほうを歩いてみる。
朝買い物があって「ムサシ」まで行った帰り、林ノ町から西仲間町、横町あたりをふらふらしてみました。
この辺は大正の大火で焼けなかったところなので、ありますねぇー、古い家が。

私達のころは、小学校3年になると米沢市の歴史を学んだものでした。緑の表紙で「わたしたちの米沢市」といった教科書が渡ったものです。
そこに昭和30年代に米沢市が近郷の村と合併した記述があり、昔からの部分を旧市、新たに合併したところを新市と呼んでいました。

そして旧市にもまだまだ萱屋根が残っています。
まさに江戸そのものの風景があります。

明日は子供との約束で、「仮面ライダーオーズ」の映画を見に行くことになっています。
昨日のテレビでの放送は1000回記念の番組でした。
最初の仮面ライダーのオマージュみたいなものがありつつ、歴代の戦闘員にオーズが囲まれるシーンがありました。
それがまるでチャンバラ映画、例えば中山安兵衛の「血煙高田の馬場」であったり、
森の石松の「閻魔堂の騙し討ち」のように、主人公を真ん中にして敵が車掛かりになってる様は、全く東映の技が現代にちゃんと生きているわけです。
伝統とはすごいものと改めて思い知らされました。

関義臣という方を、

  • 関義臣という方を、
ご存知ですか。
私も分からなかったのですが、福井県越前市武生公会堂記念館にて本年10月1日から11月7日にかけて「坂本竜馬と関義臣」という企画展が開催されていたそうです。

この関義臣は福井藩士・山本五郎の3男に生まれる。藩校明道館に学び、幹事の橋本左内に認められて、文久2年(1862年)に昌平坂学問所に学んだ。1866年(慶応2年)、長崎の坂本龍馬を訪ねて亀山社中に加盟し、のちに海援隊に属した。1868年(明治元年)には、学問所で舎長を務めた、とあります。

で、写真の資料は米沢藩から米沢県に、そして置賜県なった時の明治6年8月から明治7年3月までの「御布告書集」です。明治政府から配布された公文書の綴りなのですが、文部卿 木戸孝允、内務卿 大久保利通、右大臣 岩倉具視、太政大臣 三條實美、工部卿 伊藤博文、大蔵卿 大隈重信、陸軍大輔 西郷臣道、大蔵大輔 井上馨、租税頭 陸奥宗光、などという名前がぞろぞろ書かれています。
将に「坂の上の雲」の時代といえましょう。番組は見ていませんが。

関義臣は明治6年5月29日に来県、明治7年9月に大蔵省に転任(米沢年表 米沢市史資料 第18号より)していますので、丁度その期間の文書です。
この年表は山形県が明治17年に編んだ「置賜県歴史」からこの辺の時代を拾ってきているので、それと呼応すると面白いかもしれません。

関は学問を好み、長崎に行った時、海援隊を組織していた坂本龍馬と意気投合しました。彼が意見書を見せると、龍馬は破顔一笑して「北国の奇男子、徹頭徹尾、我と同意見なり。爾後我に一臂の力を添えよ」と言い、海援隊の客員となったそうです。
そんな人が1年一寸とはいえ米沢にいたのですねぇ。

樅ノ木は残ったが、コナラは涸れた。

  • 樅ノ木は残ったが、コナラは涸れた。
以前気になっていた松岬神社のコナラがどうなっているか見に行きました。
行ってみると跡形もなく、残念ながら伐採されていました。随分虫に喰われたようでした。
その脇の樅ノ木は普通に大丈夫ですが。

松岬神社には西南に庭があり、そこにコナラがあったのです。
で、そこは池のある庭園になっているのですが、そこは景勝以来の庭だと読んだことがあります。
そこには織物殖産の碑と、高梨源五郎翁の碑がありました。