西條天満を歩く。

  • 西條天満を歩く。
ちょっと前まで誰でも入ることができた天神様のところにロープが張られて、立入禁止の札が上がりました。
そのちょっと前に様子を見に行った時の写真です。

情報を総合すると、ここの天神様は立町の皇太神社の天満宮に合祀されたそうです。
立町の天神様は姫路からいらっしゃった天神様で、(注1)西條家のは京都からいらっしゃった(注2)のだと思います。ずいぶん遠くから来て一緒になられたみたいです。

なので、神社の中は空っぽになり、鈴も取り払われていました。
灯籠も地震のときになったのか、危ないからなのか倒れていました。
社務所は去年だったか今年の初めだったか、解体されました。

3年ほど前のお祭りのとき、社務所で子供たちと町内の人たちが宴会をやっていました。ちょっと前なのに、何だか懐かしい光景のような気がします。
そして今日は皇太神社の祭礼です。

(注1)この天満宮は播磨の国(兵庫県)姫路の浪人、横山権六という人の守り本尊で、享保3年8月、尊体を捧持して米沢城下立町に落ち着いた。横山氏は自分の屋敷に祀っていたが、三代目権六(仏師を業としていた)は、霊験あらたかな神様を俗家に置くのはもったいないと、文化9年(1812年)秋、皇太神社の境内に納めたものである。昭和4年に立派な堂宇を建立し、末社の対面を保つようになった。
(山宮広章 置賜の史話より。)


(注2)今を去る約650年前の元寇3年(1323年)、北条高時によって島根県の壱岐に配流されていた後醍醐天皇がひそかに島を抜け出され、小舟に乗って島根県に居た忠臣名和長年のもとに逃げのびられる時、倫房は舟を操り追手を欺いて無事送り届けた。このあと天皇は建武中興を為し遂げられた。天皇はこの倫房のこのときの功を讃え菅原道真の画像を与え、信州西條の城主に任じ五満貫を与えた。それから倫房は西條を姓とし子孫はのちに上杉家に仕え、門東町に屋敷を拝領し侍組として名を成した。
西條家は菅原道真を崇拝し先祖倫房と二柱を祭神として西條天神を建立した。これが西條天満神社で学問の神様である。大火後の大正11年に再建された。
(神社の立て看板より)
2011.07.15:mameichi:[米沢城下に江戸を訪ねる]

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