コブラがシンボルの無線機メーカ・ダイナスキャン社はウエスト・コートランド・シカゴ6万番台イリノイ州にありました、今どうなってるのかはわかりませんが、当時かかわった技術のメンバーは日系2世の日本人、ドイツ人、イギリス人、韓国人と4人でした・・ほんとアメリカは多民族国家というのを感じたものでした、お世話になったのは日系2世ハワイ生まれの方で父は広島ということでした片言日本語は広島弁で戦争のことを”いくさ”といって父は戦時中言葉にできないくらい大変苦労したらしい・・ちょうど娘さんが生まれたということでキャンデーを配ってました、男の子が生まれると葉巻を配ってお祝いするそうです・・お祝いをもらうのではなく、幸せを配るという風習アメリカらしいと思ったものでした、この会社で驚いたのが一つありますそれは、技術メンバーは全員みな机の真後ろにいつでも送信から受信すべてを試験できるセットアップができてるということです。日本なら都度スペアナからオシロを奪い合って共同の実験室かなんかで貸し借りしながらですがね・・社長の方針で気になったらいつでも実験、性能確認ができるようにだそうで・・当時ガンタイプのポラロイドカメラまで各自持っていたのには驚きでしたさすがアメリカ懐でかいなと感じてましたね。。新機種の性能はダイナの満足できるものではなく数週間予定の改造作業は急遽性能改善とその確認実験という繰り返しの連続となりお金も底をつきホテルは安モーテルに変えて、移動はタクシーから安いバス通勤にして、ホテルでは開発担当、製造技術、製造3名の出張でいつも3人集まり日本の技術人と性能改善対策・・そして改造までホテルに持ち帰り行うという日本人特有の勤勉さにダイナの社員は驚いてました・・その4に続く
仕事の記録1975-1978年CBトランシーバ(その2)
コブラがシンボルのダイナスキャン社はテレビの試験機、測定器の販売から始まりCB無線機に進出したメーカ、当初は自社設計で作っていた無線機もブームでより低価格とするために東芝、ユニデンに依頼することになる、大手企業のモトローラ技術部門で技術を習得して独立無線機に進出と聞きました、ダイナスキャンのサービス修理を行うところでユーザからの評価ヒアリングの機会がありました・・盗難が多いということ、なんでも自分で作るという文化があり改造あたりまえという感じ、鉄砲で打ち抜かれたとかという製品も修理依頼されるとか驚きです・・修理会社もみな大手から独立開業したメンバーと聞きました、会社に忠誠尽くすというより会社を利用して個人で開業するとか会社を渡り歩くという文化の違いに驚きを感じてましたね・・この時はまだ旧機種の水晶マトリクスの製品で東芝製はすこぶる評価が良かったのを覚えてます、当時各社はPLLを利用した新機種投入の切り替え期でしたPLLとは入力信号や基準周波数と出力信号との周波数を一致させる電子回路、入力信号と出力信号との位相差を検出しVCO(電圧変化の発信機)とループを制御することで正確に同期した周波数信号を作ることができ、発信周波数を一定にする携帯電話や無線機の周波数制御に用いられる、技術陣はPLLを利用した新機種開発で残業残業でしたFCCの認可試験などもあり認定設備での新機種EMC試験にも行かせてもらいました・・機種はAM専用機ダイナの機種ではないですが当時東芝はダイナ、トラン、シアーズと輸出してました、私が製造技術で初の主担当となった量産認定機100台はすべて一人で調整試験、評価した店舗デモ機で思いの詰まった機種でしたがダイナの評価は最悪で当初数週間の出張は数ヵ月の長期に及ぶものとなりました・・当時駐在の開発技術は1名で製造技術と製造の2名で100台の132XLRと10台の135XLRという車載とホーム型の2機種のダメだし項目を一つ一つつぶしていくという長期の出張となったのでした・・・その3へ続く
仕事の記録1975-1978年CBトランシーバ(その1)
CB無線は低コストで実現できる近距離用の音声通信のための制度で世界の多くの国で制度化されている・・米国ではオイルショックが原因で安いガソリンを求めトラックドライバーの間で急に所有する人が増え昭和48年ころから数年間ブームとなり輸出が急増する・・そのころ昭和50年(1975)に東芝日野に入社・・この年大手電機メーカでも自宅待機があったほどの不況の年・・通常4月1日入社が東芝では4月21日入社となった同級生で富士電機や三菱電機などもひと月近く自宅待機で地元のマルコン電子(コンデンサメーカ)は年明けまで自宅待機だったと記憶している・後にも先にもこの年だけ自宅待機ということがあったのである・東芝日野は通信機事業部として電話機、移動や防災・タクシー無線機、ポケベル、マイクロ通信設備や雨量計ダム管理、ファクシミリなど開発製造していてその中の伝送機器部小型無線課が初めての職場であった、水晶マトリクスで23chの輸出向けCB無線機の組み立て製造から調整・検査を一通り習った後、その無線機の製造技術に移動となりました、当初水晶マトリクスで23chを作るのに4×6個の水晶が必要で品薄になるほど増産に拍車がかかっていて、当時不況の輸出メーカはこぞって米国にトランシーバーを供給したのが日本企業でありました、新参入のメーカーを含めて輸出に乗り出し乱立した粗悪無線機の不要輻射にCHが少ないため混信がおおくなりFCC(米国の無線管理局)がスプリアスの10dbダウンと40chに増やすなど新機種開発とその認定のため当時開発担当は相当苦労しました、オイルショックに苦しむ日本の電子工業会にとっては救いであったのですがブームはあっという間に去り倒産企業や大きな痛手を受けた企業も少なくなかったのです、製造技術では先輩について製造資料つくりや調整方法などを学び、始めて任された仕事が米国ダイナスキャン社に納める量産認定のための100台の試作品製造とその調整試験に性能評価を行うことでした、100台の無線機は全米の店舗に置くデモ機となりユーザの評価も受けることになるのです・・そのなつかしい無線機コブラ132XLRネット検索すると出てきました外観写真に回路図も検索できましたなつかしいです・・当時回路図は製品に入っていて知識ある人はかってに改造するのが当たり前のようでしたね・・米国への出張もこの仕事を担当するのがきっかけで行くことができてほんとにうれしかったのを覚えています、ダイナスキャン社のCB無線機いまでも販売してるようです・・その本社前と本社ロビーで担当機種COBRA132を指さして当時はやっていた”みじめ”というポーズで写真AM,SSBの車載用にAM専用の車載器とホーム型のAM,SSB機種3機種が東芝製で担当した132は性能NGの評価となりリワークするというのが出張目的でした他にユニデン、当時トリオの会社も同じようNGがあって改造に来ていたようです・・その2につづく・・
雪下ろし
雪国で必要な雪下ろしに道の雪かき、やらなくていいものならやりたくないし、重労働で危険がいっぱい、誰もが憂鬱になる代物、昨日はせっかくの休みですが屋根から落ちた雪の片づけに屋根に積もった雪の雪下ろしで終わってしまいました。せっかくの急勾配屋根で屋根の雪は下ろさなくていいと思っていたのですが曲がり屋に追加されてる玄関のところは勾配があまく屋根の塗装も剥げてきており雪がつっかえるようです、ということで雪下ろし、雪下ろしによる事故は毎年のように発生し跡を絶ちません。屋根の雪を下から突いて、たまった雪が一気に落ちてそのまま雪に埋まったり、屋根の雪下ろし中に雪とともに落下、除雪機への巻き込まれ事故・・・ということで注意しながらまずは序口までの除雪して軒下の除雪、終わってからの屋根から雪下ろし、屋根から落ちた分で軒下は元のようになり軒下2回目の除雪、スコップで雪山を崩しながら除雪機で飛ばすを繰り返すといつのまにか汗びっしょり・・くたびれました・・無料のトレーニングジムと思えばまっ!いいか・・