川西町フレンドリープラザ(春待ち市)でやまがた里の暮らし大学校”まめ学部”にて紅大豆の納豆をゲットした。
我が実家、父は中卸業を営んで”大沼食品”としていたが誰言うともなく通称『なっとやさん』と呼ばれていた。家には常にナットがあった。仕入れ先は小松の『てんや食品』まだ川西町が合併する前、小松なので『小松納豆』となった。
父、最初は納豆だけで商売が始まった。街の1割は納豆を食べると言うことだったらしくよく売れたと言う。そんなに豊かではなく、冷蔵庫もなかった昭和20年代のはなし、納豆や豆腐は日本人に欠かせない食品。その納豆すら贅沢で茎菜で量を増やし、どこに納豆粒があるかわからない時代を父は過ごしている。納豆に野沢菜とか高菜とか入れる。その食べ方は今でも実家で継承されている。小松は町村合併で川西町となり、川西納豆に名称を変えて販売したが地域で根付いた小松納豆が強く親しまれ『川西納豆』では売れなかったと言う。しかたなく『小松納豆』の名もなくさず、川西納豆と小松納豆の両方販売された、(中身は同じもの)そのてんやさん後継者が無く店をたたんだ、その商標は新平食品が受け継ぎ、小松納豆、そして川西納豆としていまでも販売されている、
実家に帰るといつも川西納豆が冷蔵庫に置いてある。大粒で木の香りがして味がよく好きである。浦田農園さんの納豆はそれよりさらに大粒のナットである、おなじ木の香り、そのまま食べても非常においしい。
新平さんは私と同級生がいて高校になったとき交通事故で父を亡くしている。商売を続けるにはまだ高校生で若く同業である父は新平の長男を助けてくれと言われ、てんやさん以外で初めて新平さんの食品も卸し始めたのだそうだ。母も納豆や豆腐製造を手伝っていた時期がある。
いま新たに浦田農園納豆ぜひ根付いてほしいものだ。納豆ツウの私、お勧めです。