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イザベラ・バードの通った道(山形県川西町小松編)その12

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 川西町小松でバードが通った道、その古い街並み写真がないかなと探していた写真の一部(丸太写真館さんから公民館に寄贈された金子運太郎商店)『にまるにし』さん、現在は斉藤電機さんになっています。

 羽越水害時ここは坂の上と言う地名の通り坂の頂上に当たり水は浸かっていないバードはこの向かい側にある金子重左衛門宅(現・西永十ガソリンスタンド)に宿泊したといわれている。バードはこの突き当り側に進みますが、宿泊した永十さん『これは大名の部屋であった』と記している高級役人の泊まるりっぱな部屋、久しぶりにゆったりした部屋に落ち着くことが出来たが、中庭にある池の蛙がうるさくゆっりは休めず翌日も人口3000人の町の半数の人が押しかけたという。この商店の前も人でいっぱいだったのでしょう。

 他に古い写真は見れなかったが、この商店のマッチ箱を手に入れてしまった、うれしい・・・!(小松町とあるので昭和30年以前のものと思われます)

イザベラ・バードの通った道(山形県川西町小松編)その11

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 大正15年1926年あら町地区、米坂線開通記念とあります。米坂線が全線開通、町は祝賀ムードで盛り上がっていたのですね。丸太写真館さん寄贈写真です。現在と思われる写真は同じ昭和42年羽越水害時の写真から、このアングル?と思うのですが、あってるかな? 

 同じ丸太写真館前で撮ったものようです。昭和の小松町、高度成長以前までは風情もあり、町は活気にあふれ、繁栄していたことが伺えます。

 丸太写真館さんは自分も写真を撮り始めた中学3年からお世話になっていた。ご主人、生きてるうちに伺っておけばよかったのだけど。・・・

イザベラ・バードの通った道(山形県川西町小松編)その10

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 川西町小松の丸太写真館さんから寄贈された写真の中で場所が分からなかった1枚の写真(西区七夕祭り・昭和28年7月(1953年))とある。

 この場所、昭和42年8月の羽越水害の記録写真から判明した、現在の嵐山酒造さんの向かい側になる。

 7月の七夕祭り、子供がたくさんいて町は活気に満ちているが、この昭和30年代をピークにして町の人口は減少し続けている、同じ明治11年7月にバードはこの通りを進んでいる。現在七夕祭りは行われていないが、当時どんな町並みだったか思いをはせる。

 この反対側の嵐山酒造さんは創業、享保2年(1717年)飯豊山系の豊かな伏流水、南部杜氏と地元蔵人が精魂こめて香り高い酒を醸し出す酒蔵さん、実家ではここの『花娘』を昔から飲んでいる。
 もろみの醗酵の最後の段階で米粒が浮いた状態を“酒米桜花の如し”と詠みこれから生まれたお酒を「花娘」と銘名されてます。

イザベラ・バードの通った道(山形県川西町小松編)その9

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 川西町大字上小松字殿原を過ぎるとあら町に入る。この場所、昭和42年8月の羽越水害の記録写真が丸太写真館さんから町の公民館に寄贈されている、ちょうど丸太写真館さんの前から殿原方向を撮ったもの、丸太写真館さんの向かい側はアサヒビールの看板と娘(嵐山酒造の花娘)の文字、そして信平商店の文字が読み取れる、信平商店の看板は下ろされているが、建物は当時のままのようです。

 看板の先、今は道路になっているが、古いほうは萱屋根のいさばやさんだったと思います。この前を通るとプーーンとさきいか等のにおいがしたものです。バードは向こう側から手前側に通ってきたのかな。

 ここを過ぎると嵐山酒造があり、あと少しで宿泊した西永十さんになります。しかし、昭和42年(1967年)ころまでは、まだたくさん萱屋根の民家があったのに驚きます。なぜか萱屋根はほっとします。

イザベラ・バードの通った道(山形県川西町小松編)その8

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 清水屋食料品店前から殿原地区を撮影。バードはここを奥に進む。

 右手の看板に新川商店(酒販売)の文字が見える左の中間赤い自販機のあるところは斎食料品で通称『斎さん』と呼んでいた。昭和の30年代後半から40年年代中頃は日本の高度成長のころ、日に日に暮らしが良くなり、活気に満ちていた。商店も徒歩圏内にたくさんあった。斎さんの前の細い私道の3軒目がもと実家のあったところで中学3年まで住んでいた、斎さんは小遣い1日10円でほぼ毎日くじ(1回5円)やメンコ、アイスキャンディ(5円)などかっていたのを思い出す。昭和40年ころか?実家に写真があった。小学生から中学までたしか5分刈りでまん丸頭が嫌いだった。

 高校になるとその反動で長髪になったけど、それにしても雪の量がすごい。昔は屋根から落とした雪は除雪しないので山のようになっていた。

 古い写真の奥が斎食料品。今でもさいさんは元気でいるようだ。

 左の萱家がサニー美容室、右が床屋さんと八百屋さんであった。水害のあった昭和42年前で萱家がほとんどだった頃である。新川という川がありよくざっことりして遊んだものだ、みちがゆるいS字でいい感じだ。